冬の会津に行ってみたい.以前からそう思っていた.江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が新政府軍に恭順した後も東北諸藩は最後まで戦った.東北人の律儀な性格.この民族性は冬の厳しさと無関係ではないと思う.だからこそ冬の会津に足を踏み入れたかった.
会津のことを書くときは松平容保(かたもり)と心に決めている.幕末の荒れ果てた京の治安回復に努め,公武合体を目指すも夢破れ,最終的には会津の地を焦土と化す戦いを強いられた.以前から容保のことは調べている.それでもまだ今回は書くことができない.まだ自分には会津藩の悲劇を書くだけの筆力が伴っていない.
それでもせっかく来た冬の会津.白虎隊が見た日新館について書こう.会津若松行きの電車に揺られ,真っ白な雪景色を見ながらそんなことを考えていた.
日新館は会津の藩校である.教育水準は当時の日本の中でも一級といわれている.ここで教育を受けた若い隊士は戊辰戦争で白虎隊として出陣.新政府軍の近代兵器に圧倒され,度重なる敗戦を味わう.なんとかたどり着いた飯盛山から鶴ヶ城が見ると,煙を上げているではないか.鶴ヶ城は落城したのだ.もう帰るところはない.敵に捕まり恥を見せるよりはここで自刀を….20名の隊士は飯盛山で短い命を閉じる.
しかし,まだ鶴ヶ城は持ちこたえていた.白虎隊が見た煙は隣の町家からのものだった.
日新館は町のはずれに位置し,鶴ヶ城からも遠い.バスもほとんどないというので,駅からタクシーに乗ることにした.こんな遠い藩校に昔の人はどうやって通っていたのだろうか.タクシーの運転手に素朴な疑問を投げかけてみた.返ってきたのは思いもしない答えだ.
「昔の場所はここではなかったんですよ」
かつての日新館は鶴ヶ城の西隣にあった.戊辰戦争では病院として機能するが,度重なる砲弾を受けて全焼.その跡地は住宅になっているという.下調べをしていなかったのが原因だが,この答えには正直気が抜けた.タクシーの運転手曰く,今の日新館は映画村である.南門に戟門,大成殿などよく復元できてはいるが,映画村で歴史を歩くを書くわけにはいかない.
今回の旅行で誰に焦点を当てるかはまた振り出しに戻った.
帰りのタクシーでは,容保の話しから会津の殿様に話題が飛んだ.「今でも会津で殿様の名前が付く祭りはただ一つ,蒲生さんだけですからね」タクシーの運転手は続ける.容保が名君かどうかの判断は難しいが,会津の町や文化の基盤を作った蒲生氏郷は間違いなく名君だというのだ.
会津藩の藩祖は保科正之(ほしなまさゆき).家光の異母兄弟である.そのため三代目・正容(まさかた)の時に幕府から松平姓を賜った.しかし,正之以前は葦名,伊達,蒲生,加藤と度々城主が替わっている.
会津は東北の要である.北には天下を狙う伊達政宗がいる.会津は政宗を牽制するための最重要地点なのだ.奥州仕置きで秀吉は家康に相談し,会津に移封する人物を慎重に選んだ.白羽の矢が立ったのが蒲生氏郷である.
蒲生姓は奥州藤原氏・藤原秀郷の血を引くという.氏郷の才能を見出したのは信長だ.信長は娘・冬姫を氏郷と結婚させ,一門に取り立てた.本能寺の変の後は秀吉に仕え,松阪を治めた.今回の移封は松阪12万石から会津42万石への大抜擢である.しかも後には92万石にまで加増されている.秀吉がいかに氏郷を信頼していたかが分かる.
氏郷は甲州流の縄張りによって会津に七層の天守を築いた.そして自分の幼名・鶴千代にちなみ鶴ヶ城と名付けた.現在の天守は五層だが,これは寛永年間に改築した天守を復元したものだ.
鶴ヶ城に行く前に寄っておきたい場所があった.日新館の跡地だ.タクシーの運転手がいうように碑が立つのみで住宅地となっている.唯一日新館の遺構として残っているのが天文台跡だ.この当時,天文台は会津を含めて三藩にしかなかったという.会津の教育水準の高さが窺い知れる遺構だ.
氏郷は城下町の開発にも尽力した.楽市楽座を導入して定期市を開設.三日町や六日町などの町名は市の開かれた日を指す.また,手工業を奨励し会津漆器や酒造,金細工など産業の振興を図った.これらは今でも会津の産業として根付いている.
一方で,文化人としても功績を残している.茶の湯では千利休に師事.古田織部らと共に利休七哲に挙げられている.利休が秀吉の怒りに触れ,切腹を申し付かった時に,利休の養子・少庵をかくまったのが氏郷だ.秀吉に千家再興を嘆願したのも氏郷だ.少庵は赦免され,京に戻り千家を再興する.宗左,宗室,宗守.三人の孫によって表,裏,武者小路の三千家が興された.茶道の源流である.氏郷が少庵をかくまったからこそ今の茶道の繁栄があるのだ.
少庵が会津にかくまわれていた時に氏郷のために作ったのが麟閣だ.今は天守の側に移築されている.千家再興の地として茶人に知られているこの場所で,お茶を飲んだ.雪の中を歩いて凍えた体は少し温まった.
氏郷が会津を治めた期間はわずかに五年である.文禄の役への出陣で体調を崩し京都で突然死去する.五年という短い歳月の間に氏郷は会津発展の大きな礎を築いた.そして氏郷が会津に生みつけた文化は脈々と今に受け継がれている.
タクシーの運転手がいうように氏郷は名君に違いない.それでは容保は名君だろうか?その答えは分からない.次に会津に来た時には容保について書きたい.もう歩くコースは決めている.
(2007/1/13)
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