家から車で15分ほど走ると長久手町に着く.2005年に愛知万博が開催されるこの小さな町は,天正12年(1584)に秀吉と家康が対決した地として今に名を伝える.小軍を率いた家康が大軍を率いた秀吉に勝ったとして戦史に名をとどめる小牧・長久手の戦い.戦いに敗けた秀吉が政治手腕で家康を傘下に引き入れた戦いとしても知られている.
小牧・長久手の戦いの発端は本能寺の変である.信長が倒れた後,秀吉は明智光秀を討つことで後継者争いに名をあげた.秀吉の行動は迅速だ.織田家家老の柴田勝家,信長の三男・信孝(のぶたか)らを順に滅ぼし,勢力は日増しに増大.その勢力に恐怖を感じた織田信雄(のぶかつ)は,父・信長の盟友である家康に応援を求めた.
いずれは秀吉と戦わねばならない.信雄の要請に家康は腰を上げた.小牧・長久手の戦いの火蓋が切られた.信雄は秀吉に内通した三老臣を殺害することで宣戦布告.家康は本陣を清洲から小牧山に移した.両軍は動いた.しかし初戦では大きな戦いには発展せず,小競り合いが続くばかりであった.
その様子を見ていた池田恒興(勝入)は小牧山の徳川軍を攻略するのは難しいと考えた.小牧山に徳川軍が集まっている.家康の本拠地である岡崎が手薄になっているのではないか.そこを突けば,家康も動かざるを得ないはずだ.恒興は秀吉に岡崎侵攻の作戦を献策した.
当初,秀吉は恒興の献策を拒否した.しかし恒興は秀吉の家来ではない.信長の乳兄弟だった男だ.今,秀吉の下についていること自体が奇跡に近い.拒否し続ければ恒興は寝返るのではないか.秀吉はそれを恐れた.恒興の再三の献策に岡崎侵攻を許可せざるを得なかった.秀吉は甥にあたる三好秀次を総大将に命じ,配下に池田恒興や森長可を従えて2万の岡崎侵攻軍を編成した.
家康は多くの忍びを放って敵の動向を調べていた.恒興進軍の真の目的はすぐに家康の耳に届いた.すぐさま先遣隊を出発させた.徳川先遣隊が岡崎を目指す三好勢の後尾を攻撃.長久手の戦いが始まった.
家康は色金山へ陣を移動.色金山は山というには小さく,小高い丘のようなものだ.長久手周辺を一望することができる.情報網が発達していないこの時代の戦は,敵情を一望できる場所を確保できるかが命運を分ける.
色金山は長久手町役場のすぐ近くに位置し,歴史公園としてよく整備されている.木造の展望テラスからは家康が当時見たであろう長久手町の景色を一望することができる.また,展望テラスには2枚の大きなレリーフが飾られている.『家康隊進軍の図』・『家康軍議の図』と題されたレリーフには長久手の戦いの様子が描かれている.家康軍議の図で家康が腰をかけている石は床机石だ.今も色金山の山頂にある.家康はここに金扇の馬標を立てて軍議を開いたという.
色金山から2キロほど南に歩くと,長久手の戦いの激戦地跡として伝わる古戦場公園にたどり着く.リニモの駅のすぐ近くだ.古戦場公園には資料室や弓道場があり,資料室の喫茶は地元のお年寄りの憩いの場になっている.
長久手古戦場公園の片隅には勝入塚が立つ.恒興が戦死したとされる場所だ.徳川先遣隊に後尾を攻撃された三好勢は一気に崩れ敗走.三好勢敗走の報を受けた恒興は軍を編成し直すが,勢いある徳川軍を前に大半の兵が戦場から離脱.恒興も槍を取って戦うが,この地で首を討たれた.
父・恒興の討死を聞いた長男の之助は恒興の陣へと引き返すところを安藤彦兵衛に討ち取られる.その地も勝入塚と同じく古戦場公園内にある.こちらは庄九郎塚と呼ばれている.父と兄は退陣したと思った次男の輝政は居城へ戻り,一命を取り留めた.
長久手の戦いで家康に父と兄を討たれた輝政は,秀吉に従って九州征伐や小田原攻めなど天下統一の諸戦に参加.後に,秀吉の命で家康の娘・督姫と結婚してからは急速に家康に接近した.そして関ヶ原の戦いでは徳川方に与する.自分自身が生き残るためとはいえ,親と兄の仇敵である.歴史とは皮肉なものだ.関ヶ原の功によって播磨52万石を領した輝政は姫路城を築造.姫路宰相と称されるほどの大大名になる.
さて,長久手に話しを戻そう.この戦いでは多くの犠牲者がでた.恒興の娘婿であり,森蘭丸の兄でもある森長可もこの地で討たれた.戦上手で武蔵坊弁慶の再来といわれ,『鬼武蔵』の異名を持つ長可は井伊の鉄砲隊に眉間を打たれて討死.その地は武蔵塚と呼ばれ,古戦場公園から400メートルほど西の空き地に石碑だけが寂しくぽつりと立っている.
この一帯にはたくさんの戦死者が横たわっていた.血の池公園は武将が血槍や刀剣を洗ったことから呼び名がついた.池の水は真っ赤に染まったという.色金山の麓,安昌寺の僧雲山和尚は敵味方の区別なく戦死者の首を集めて埋葬し供養した.その地は首塚として伝えられている.
秀吉は楽田で敗戦の報を聞いた.直ちに救援に向かおうとするが,時既に遅し.家康は小牧山に帰陣しており,秀吉は弔い合戦をすることができなかった.その後はどちらも動くことなく両者の睨み合いが続き,政治的な駆け引きによって秀吉と信雄の間で和議が成立.信雄に請われて参戦した家康には戦う名目がなくなった.
この戦に勝った家康は一旦秀吉の傘下に入るものの,秀吉没後に天下人となり徳川300年の礎を築き上げる.この戦で家康に父と兄を討たれた輝政は,後に徳川勢の先鋒として西国大名に睨みをきかす存在になる.歴史は最後の最後まで何があるかは分からない.しかし,この戦で家康と秀吉のどちらが勝利しようが人頼みであった信雄に天下が回ってくることはなかったであろう.
歴史とは自分自身で切り開くものなのだ.
(2004/12/19)
| 山岡 荘八 「徳川家康(全26巻)」講談社文庫
いったん権道寺に陣をすすめた家康は,朝日があたりを照しだすと,すぐまた陣を色ヶ根山に移動した.この色ヶ根山は白山林の東南にあたり,ここに陣取ると,堀秀政と池田勝入の両隊を中断出来ると思ったからであった.この両隊に一つになられては野戦の妙は発揮しがたい.どこまでも両隊を引きはなしておいて,各個撃破を遂行したい家康であった.
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