小学生の頃からだろうか.一度は行きたいと憧れを抱いていていた場所が二箇所ある.一つは平泉の中尊寺金色堂.もう一つは日光の東照宮である.
大阪で生まれ育った私にとって,大きな寺社仏閣はそんなに珍しいものではない.京都や奈良で目にする機会は多い.それでも遠く離れたこの二つ地には強い憧れを持っていた.理由はよく分からない.東京よりもまだ東にあるという遠い土地への憧れにも似たものだろうか.訪れたこともないこの二つの地を聖地のようにも思っていた.
北関東に位置する筑波に住むようになって日光が近くなった.そうだ,日光に行こう.
五街道の一つとして整備された日光街道.日本橋から宇都宮までは奥州道中を兼ねており,宇都宮で分岐して日光へ続く.JRで行く場合にも似た道程だ.宇都宮で東北本線から日光線に乗り換える.
途中で下車した宇都宮は餃子の町.乗り換えの待ち時間で町を散策して餃子を食べる.変わり種の餃子を売りにしている新店舗が多い中,老舗といわれる店のメニューは餃子のみで潔い.空いた小腹を落ち着かせて日光へと向かった.
家康は死後,久能山に祀られたが,遺言は『死後一年経てば日光に神として祀れ.八州の鎮守となろう』というものであった.その遺言通り,元和2年(1616)に日光の創建が始まった.日光創建に活躍したのが天海という僧侶だ.
この天海,実は明智光秀だという説がある.光秀は本能寺の変の後,山崎の戦いで秀吉に敗北.敗走中に土民の竹槍を受けて横死するというのが定説だ.差し出された首は腐敗しており,光秀本人かどうかは確認できなかったという.
天海光秀説では,光秀は生き延びたというのだ.日光の西一帯の平野部を明智平という.天海の命名だ.図らずも逆賊となってしまった明智の名を後世に残そうとしたのではないか.将軍・秀忠と家光の命名も天海だという.秀忠の『秀』,家光の『光』は光秀から一字ずつを取ったのではないか.単なる偶然では片付けられない何かを感じる.
日光線は単線でのどかだ.ほとんどの乗客が片手にガイドブックを持っている.行き着く先は皆同じだ.終着の日光駅に降り立つ.しばらく歩くと,遠くに男体山の冠雪が見える.今年は生憎の暖冬.日光自体に雪はない.早速東照宮へ向かった.歩くと少々距離はあるが急ぎではない.
国道119号線の終わりに近づくと天海の像が立つ.果たして光秀なのだろうか.像に問いかけたところで返答はない.天海の像の側には神橋が架かる.朱塗りが美しい.この橋は将軍のために作られ一般の通行は禁じられていた.ここが東照宮への入り口だ.気を引き締めて石段を登る.
東照宮を造りはじめたのは徳川2代将軍・秀忠である.3台将軍・家光が家康の20回神忌に大規模に造替.現在の規模になったのは家光廟の大猷院廟ができてからである.自らのことを『生まれながらの将軍』と公言した家光は度々日光の地に足を踏み入れた.
祖父・家康は戦国時代を切り開き,父・秀忠も関ヶ原や大阪の陣に参戦.家光が生まれたのは関ヶ原の後だ.不穏な大名は改易され,家光が将軍になった頃には天下の形勢はあらかた落ち着いていた.
平和になった江戸時代.家光は徳川家の威光を他大名に見せつける必要があった.それが江戸城と日光の大改築ではなかったか.徳川の威光を示すと共に天下普請によって大名に金を使わせる目的もあった.日光内の建物も多くは大名の寄進によるものだ.黒田長政によって一ノ石鳥居が寄進され,伊達政宗によって南蛮鉄灯籠が寄進された.
家光は生まれてすぐに乳母・春日局に育てられ両親とは引き離された.当時としては普通のことではあるが,両親は手元の次男・忠長を可愛がり,家光を疎んだ.家光を将軍に指名したのは家康だ.春日局の説得によるものだといわれているが,それは関係ないだろう.家康は長男という秩序を重んじた.秩序を守らずに徳川家が分裂することを恐れたのだ.
家光は将軍に指名してくれた家康を尊敬していた.それは日光の造営にも影響している.家光は日光大造営にあたってどれだけ金を使ってもよいと指示し,事実家康以来の財産を費やした.これだけのものを完成させるには莫大な財産が必要なのは想像に難くない.それでも,家光は思ったよりも金額は少なかったと側近に漏らしている.
日光の見所はなんといっても彫刻である.見ざる,言わざる,聞かざるの三猿や眠り猫が有名だが,それだけではない.虎や象を始め,竜や息などの想像上の動物まで一つ一つの彫刻が丁寧で見事だ.人の彫刻の表情も豊かだ.ただ,この鮮やかすぎる装飾,あまり見ていると少々疲れる.華やか過ぎるということだろうか.
眠り猫が守る東回廊からは家康の墓所へと石段が続く.踏み石の一段一段は一枚岩から切り出したもの.重厚感がある.そして杉の並木が見事だ.木漏れ日が差し込む中,墓所をぐるりと一巡し,家光の廟がある大猷院へ向かった.残念ながら家光の墓所は非公開.観光客が入れるのは皇嘉門前までだ.門は閉ざされていた.
東照宮はよく燃えずに残ってくれたと思う.徳川幕府のシンボル的存在である.幕末の戊辰戦争の混乱で燃えていても不思議ではなかった.実際,幕府軍は日光に立てこもろうとした.しかし,日光山の住職は戦闘を回避するために幕府軍を説得.その結果,日光を占拠していた幕府軍は撤退.会津へと向かった.これによって戦火を免れたのだ.
作る労力をあざ笑うかのように,戦火は木造の日本建築を一瞬で燃え尽くす.ここまで受け継いできた歴史遺産.なんとか後世に残したいものである.日本建築の粋を集めた日光.小学生の頃からの聖地を巡る旅は終わった.
(2007/1/20)
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