天正元年(1573),織田信長は浅井長政の居城である小谷城を攻め,長政を自害に追い込んだ.信長が妹お市の方の夫であり同盟相手でもある長政を攻めたのには訳がある.
元亀元年(1570)に信長が朝倉を攻めた時のこと.代々朝倉家に恩義がある浅井家は朝倉を助けるため信長に敵対した.この選択は長政の父久政の意向が強いといわれてるが,結果的に長政も信長に敵対した.
この時,お市の方が陣中見舞と称して小豆をいれて両端を縛った袋を信長に届け,袋のネズミになることを知らせたというエピソードが残されている.真偽はともかくとして,信長は浅井・朝倉に挟まれることになり,命からがら本国へと逃げ帰った.
本国ですぐに陣を建て直した信長は,家康と組んで姉川に参戦.浅井・朝倉の連合軍を破った.3年後には小谷城を攻め,久政・長政父子を滅ぼした.
戦功によって浅井の領地である近江三郡を与えられたのが羽柴秀吉である.秀吉は小谷を居城とするが,山中にある小谷城は不便だ.しかも雪による寒さが厳しい.翌春に城を今浜に移した.今浜は室町時代の初期に佐々木道誉が出城を築いた跡地である.
西に琵琶湖,三方に堀をめぐらせた城が完成すると,秀吉は地名を長浜に改めた.信長から一字を取ったとも言われる.豊鑑によると,秀吉を支えた竹中半兵衛は長浜が栄えるように願う歌を詠んでおり,長浜の地名のルーツとして豊国神社の近くに歌碑が刻まれている.
秀吉は,城だけではなく城下町の形成にも力を注いだ.城の東側に碁盤の目に道路を設け,小谷城下から民家や寺院を移転させ楽市楽座を設けた.また,年貢免除や賦役免除で民を集め,長浜繁栄の基礎を築いた.
現在の長浜を歩いてみると,マンホールに秀吉の馬印である瓢箪が刻まれているなど,秀吉時代の影響が色濃く残っている.しかし,どちらかというと雑多な時代が混じりあっているような印象を受ける.
長浜の駅を出ると,秀吉と三成の出会いの像が建つ.像を横目に長浜城外堀跡を越えると,北国街道と交差する.北国街道は鳥居本宿で中山道と分岐し,近江と北陸を結ぶ街道だ.人の往来が多く江戸時代には商家や旅籠が軒を連ねていた.その交差点には安藤家の屋敷が建つ.
秀吉は町衆の中から十人衆を選び長浜の自治を委ねた.十人衆から選ばれる三年寄として江戸期を通じて活躍したのが安藤家である.明治38年に建てられたこの安藤家の屋敷は,長浜を代表する近代和風建築であり,今では貴重な歴史遺産である.
安藤家を過ぎると黒壁スクエアが現れる.明治時代に黒壁銀行と呼ばれていた黒漆喰の建物を黒壁ガラス館として保存し,ガラスやオルゴールを町の観光産業として発展させようとしている.
また,線路沿いにある鉄道スクエアには明治15年に北陸線の始発駅として建設された初代の長浜駅が保存されている.駅舎としては日本最古のもので,第1回の鉄道記念物に指定された.
長浜には明治期の建築物が多く保存されている.秀吉当時の建築物としては茶亭門が伝えられている.現在は食事処の入口として利用されているが,当時の建物であるかは甚だ怪しい.
長浜の繁華街から線路を挟んで反対側,琵琶湖に面した所に長浜城が建つ.秀吉が大阪に移るまでの10年間本拠地とした長浜城は,関ヶ原後に取り壊されており,石垣などの多くの資材は彦根城の建設に使われた.現在の長浜城は1983年に建築された歴史博物館である.城の周辺は豊公園と呼ばれ,日本さくらの名所100選に数えられる.
秀吉が長浜で手に入れたのは新しい人材である.長浜は京や大阪と北陸を結ぶ重要な地点であり,多くの物資が通ることから近江商人が生まれた.このため,武士の中にもそろばんをはじける者がいた.石田三成を始め,後に秀吉を支えた五奉行のうちの三人が近江出身者である.長浜の町を歩くと,雑多な歴史の中で新しい産業を展開している様子から近江商人の商才を感じる.(2005/1/8)
| 加藤 廣 「秀吉の枷(上・下)」 日本経済新聞社
「光秀に負けぬよう,この藤吉郎のつたない学識と知恵を半兵衛殿のお手で補うては下さりませぬか」 「それは明智殿と争って,織田家中でさらなる出世を望むためでござろうか」 「それもある.しかし,決してそれだけではござらぬ.拙者には拙者の存念がござる」 「はてさて,その存念とはなんでござろう.まさか,かの覇王へのご謀反ではござりますまい.いやこれはただの戯れ言だが」 半兵衛は微笑を浮かべながら,危険極まりないことをさらりといってのけた.
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