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藤原清衡が見た平泉を歩く
平泉の世界遺産登録が見送られた.このニュースが流れた時,関係者はどんなにか落胆したことだろう.平泉は『浄土思想を基調とする文化的景観』を打ち出して,世界遺産への登録を目指していた.残念ながら結果は登録延期.再び登録を目指すなら,推薦を受けることから始めなければならない.事実上の落選である.

普遍的価値の証明が不十分だというのが登録延期の理由だ.文化の異なる欧米人に浄土思想を伝えるのが難しかったと関係者は敗因を分析していた.確かにそうかも知れない.キリスト教の教えでは死んで来世に生まれ変わる.全ての人は死んで極楽浄土に行くという思想は欧米人には馴染みのないことかもしれない.しかし登録延期の理由はそれだけなのだろうか.

単体で世界遺産に登録されるのなら中尊寺の金色堂は間違いなく世界遺産だと思う.金色堂は国宝の第一号だ.過去の世界遺産を見ると,原爆ドームのように単体で世界遺産に登録されているものもない訳ではない.しかしそれでは世界遺産は膨大な数になる.多くは『古都京都の文化財』のように遺跡の集合体として登録されている.

平泉も中尊寺,毛越寺庭園,無量光院跡などを組み合わせて世界遺産の登録を目指した.無量光院は宇治の平等院鳳凰堂を模して造ったといわれる寺院だ.この跡地に立った時,世界遺産への登録は難しいかも知れない,正直そう感じた.

金鶏山を背景に空が広く緑が美しい.太古の昔からの変わらぬ景色なのだろう.日が落ちる頃には空が薄紫色に染まり,雄大な空間を感じることができるという.しかし,今ここに無量光院はない.遺構として礎石と池跡が残るのみだ.ここに当時の建物が残っていれば世界遺産の結果は違ったかも知れない.そう思った.

平泉の弱点は現存する建築物があまりにも少ないことだ.藤原氏の時代の建物は金色堂だけだといってもよい.それ以外は当時と変わらぬ景色と礎石が残るばかりだ.ほとんどの建物は中世のうちに焼失している.

唯一残る金色堂は奥州藤原氏の象徴である.小学生の頃からの憧れだった.ようやく実物を目の前にした.金色堂の名の通り,眩いばかりに光輝いている.阿弥陀堂の柱や須弥壇,螺鈿細工などの装飾が見事だ.この中には奥州藤原氏の初代清衡,2代基衡,3代秀衡の遺体,そして最後の当主・泰衡の首級が納められているという.

藤原清衡はこの地に極楽浄土を作ろうとした.平泉を中心に仏法の興隆を基礎とした極楽浄土を作ろうとした.この極楽浄土の思想は欧米人にとって馴染みのない思想だろう.しかし現代に生きる我々にとっても馴染み深いとはいえないのではないか.この清衡が求めた思想を理解するためには清衡の壮絶な生い立ちについて必要があるだろう.

平安時代の後期,陸奥の奥六郡には安倍氏という土着の豪族がいた.都から独立した勢力を形成し,朝廷への貢租を拒んだ.この安倍氏を討つために都から遣わされたのが河内源氏の源頼義である.

頼義の奥州赴任(1051)から安倍氏滅亡(1062)までの12年間の戦いを前九年の役という.12年の戦いをなぜ前九年というのか.実はよく分かっていない.愚管抄や古今著聞集などでは奥州十二年合戦と呼ばれている.後に後三年の役があるが,12年から3年を引いて,奥州十二年合戦が前九年と後三年に分れたという説が有力だ.ただし奥州十二年合戦と後三年の役は全く別の戦いだ.しかも後三年の役は5年間の戦いだ.

それはともかく清衡が生まれた天喜4年(1056)は東北の覇権争いである前九年の役の真っ最中だった.清衡の父・藤原経清は安倍氏の勢力の一員だった.本来,藤原氏は源氏の勢力,つまり安倍氏を討つ勢力である.しかし経清の妻・つまり清衡の母は阿部氏の娘であった.経清と同じく安倍氏の娘を妻としていた平永衡は安倍氏への内通を疑われ頼義に討たれた.経清は恐れた.自分も討たれるのではないか.この事件を機に経清は源氏から離反し,安倍氏の下へと奔った.

一時期は安倍氏の勢力が勝っていた.しかし頼義は源氏の面子にかけて安倍氏討伐を諦めなかった.数々の工作を行い,出羽の清原氏に援軍を要請.清原氏の加勢によって形勢は一気に逆転した.源氏と清原氏の連合軍は安倍氏を討ち,経清を捕縛.裏切り者と罵られ処刑された.この時,清衡7才.清衡の母である安倍氏の娘は,安倍氏を滅亡させた清原武貞の後妻となることを強要された.敗者に否応いう権利はない.ただ,母子共に生きながらえることだけは許された.

安倍氏の奥六郡は清原氏の手に渡り,20年の歳月が流れた.この間,清衡は父の仇である清原氏の養子として育てられた.長い月日のうちに母である安倍氏の娘には清原氏との間に家衡が生まれていた.清衡から見れば異父弟である.そして,血のつながらない兄の真衡が清原氏の当主となった.

この清原氏の内戦が後三年の役の始まりである.きっかけは当主・真衡と一族長老・吉彦秀武の対立だ.秀武は真衡と仲の悪い清衡と家衡を味方につけた.真衡はすぐさま秀武を討つために挙兵.しかしその最中に病死する.これによって真衡が治めていた奥六郡は清衡と家衡が三郡ずつに分割して統治することになった.しかしその分割統治も長くは続かなかった.家衡が清衡を攻めたのだ.

異父兄弟での争いである.家衡は清衡の暗殺をもくろみ,館に火を放ち,妻子を惨殺した.清衡は源氏の棟梁である義家に援軍を要請した.源氏も頼義から代替わりしていた.名高い八幡太郎義家である.頼義は前九年の役で勝利を収めたものの,陸奥守は解かれ,鎮守府将軍の地位は嫡男・義家に継承されなかった.奥州は源氏には与えられず清原氏の手に渡った.その清原氏が内紛している.義家にとって清衡からの要請は再び奥州に介入するチャンスだった.

義家は家衡のこもる沼柵を攻めた.奥州の冬は雪が深い.寒さと飢えは軍兵の戦意を喪失させる.持久戦になると攻める義家には不利である.家衡は篭城して持久戦に持ち込んだ.本格的な冬が到来すると義家は撤兵せざるを得なかった.

冬が終わり夏が過ぎると義家は再び大軍を率いて総攻撃をかけた.源氏の棟梁として二度も同じ轍を踏む訳にはいかない.しかし家衡は前以上に防備を固めていた.義家は力攻めをあきらめ兵糧攻めに変更.これが功を奏し,兵糧の尽きた家衡の館から出火.義家軍は乱入し,家衡を討った.

家衡の滅亡によって奥州六軍を任されたのが清衡である.もう父の仇である清原氏を名乗る必要はない.元の名字である藤原を名乗り,藤原清衡に復していた.

清衡が平泉に多宝寺を建立したのは前九年と後三年の役で戦死した兵の霊を慰めるためである.そこに敵味方の区別はない.血のつながった者達が己の欲望のために命を奪い合った.前半生の激変する人生が清衡を浄土思想に導いた.そして,奥州から産出する莫大な黄金を使って都に匹敵するほどの平泉文化を育てた.その中心が中尊寺である.ここに大伽藍を造営した.

清衡の思想は子孫に脈々と受け継がれる.2代基衡は毛越寺を建立した.自然を景観に取り入れた浄土庭園である.吾妻鏡によると『金銀を散りばめ,紫檀・赤木でつぎ万宝を尽くす』ほどに壮大な伽藍が建っていたという.しかし残念ながらここにも当時の建築物は残っていない.本堂は平成になって再建されたもので,常行堂や開山堂は江戸中期の再建だ.南大門や嘉承祥寺跡,金堂円隆寺跡などは礎石が残るばかりである.

見所の一つである遣水(やりみず)は藤原氏時代の遺構である.平安時代の庭園の遺構としては唯一のもので,毎年この場所では平安時代の衣装を身にまとい曲水の宴が開催される.ただ建築物に比べるとインパクトに欠けるのはやむを得ない.

後三年の役が終結して清衡が奥六郡を治め始めてからちょうど100年後に3代秀衡が永眠する.奥州藤原氏の灯火が消えた瞬間である.秀衡は源氏との縁から義経を匿っていた.しかし,4代泰衡は義経の首を差し出せという度重なる頼朝の命令に屈して義経を襲撃.高館にある義経堂は義経終焉の地といわれている.奥の細道を書くためにこの地を訪れた松尾芭蕉もこの高台からの景色を眺めた.『夏草や兵共が夢の跡』の句を詠んだ地だ.

今も当時と変わらない風景を見ることができると聞いていた.期待して登った高台からの眺望にガッカリした.眼下の北上川の堤防には平泉バイパスを通すための工事用重機が並んでいる.堤防は掘り起こされ赤い土がむき出しだ.建物が失われたのは仕方がない.しかし当時と変わらない景色までが失われようとしていた.

やはり平泉の世界遺産入りは難しいかもしれない.ここでもそう感じだ.平泉は再び世界遺産入りを目指すという.古くからの景色を残しつつ登録を目指して欲しい. (2008/7/20)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない

 

藤原三代画像の藤原清衡公

無量光院跡

中尊寺金色堂

芭蕉翁像

旧覆堂

中尊寺本堂

毛越寺本堂

常行堂

大金堂円隆寺跡

遣水

高館義経堂

義経堂からの眺望


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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