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保科正之が見た江戸城を歩く
江戸城に天守はない.現在は芝生となっている広い本丸には天守台の石垣のみが残されている.

徳川将軍家の城・江戸城.総面積にして大坂城や安土城の二倍以上の規模だと伝わっている.その大きさは残された天守台を見るだけでも容易に想像がつく.さぞかし立派な天守が建っていたことだろう.しかし,実のところその姿はよく分かっていない.

熊本城や名古屋城を始め多くの城は明治維新の戊辰戦争と太平洋戦争で焼失した.カメラが日本に伝わったのは幕末期だ.多くの城は焼失前の天守の雄姿が写真に収められている.

しかし,江戸城の天守が焼失したのは両戦争ではなく,もっと前だ.江戸城に最後の天守が建っていたのは350年も前のことである.

江戸城の歴史を見てみよう.最初の築城は太田道灌(どうかん).時は室町時代後半.関東では古河公方の足利成氏と扇谷上杉定正が覇権を争っていた.定正は道灌に江戸城の築城を命令.築城の名手だった道灌はわずか1年で江戸城を築き上げた.

しかし,定正はこの堅固な城を見て道灌謀反の疑惑を持った.そしてこともあろうか暗殺.道灌は「当方(扇谷上杉)滅亡」と叫び絶命したという.家臣を信用できないような扇谷上杉家は滅びるだろうという予言だ.その後,江戸城は北条早雲の子・氏綱によって攻められ落城.落ち延びた扇谷上杉家は川越の戦いで道灌の予言通りに滅亡する.

江戸に城代を置いた北条家の時代も長くはない.早雲から数えて五代で秀吉小田原城攻めを受け滅亡.その地関東八州が家康の領となった.秀吉は家康を恐れ,地方へと追いやったのだ.

関東八州といえば聞こえはいいが,この頃の関東は途方も無く田舎だ.江戸城が堅固だとはいってもこの当時の城は今日多くの人が想像する城とは掛け離れている.城といえば石垣にそびえたつ瓦屋根の天守閣を想像する人が多いだろう.しかし,これはまだまだ後のイメージである.

当時の城に石垣はなく,土を盛っただけの土塁が基本.瓦は寺社仏閣のためのもので城には使われていない.土塁の上に建つ木造の館が城であった.もちろん天守などない.

既に安土城があるではないか.そう指摘する人がいるかも知れない.これこそが当時の大革命であった.高石垣・城郭瓦・礎石建物.信長はふんだんに新しい技術を使って安土城を築き上げた.信長なき後は秀吉が大坂城にこれらの思想を受け継ぎ,西日本を中心に急速に広がっていく.

後の時代になっても東日本には土塁の城が多い.水戸城は御三家の城にも係わらず石垣はなく土塁である.家康が石垣の築造を禁じたこともあるが,関東の粘土質の赤土は土塁に適している.石垣がなくても堅固な城を作ることができたのだ.

征夷大将軍となった家康は天下普請と称して諸大名に江戸の整備を命じた.山を切り崩し海岸を埋め立て城下を拡張した.江戸城は家康,秀忠,家光と三代にわたって増築を重ね,姿を変えた.家康の築いた天守を秀忠が取り壊し,新たに作り直す.家光もまたそれに倣った.

現在の総構えが完成したのは1637年.家光の時代だ.五層の天守に三重櫓が九基,その他の櫓が六十七基,櫓門が百二十七棟の壮大無比な城郭が完成した.現存する櫓は巽櫓・富士見櫓・伏見櫓の三基のみだ.井伊直弼が暗殺された桜田門も改修はされているが残っている.

さて天守に話しを戻そう.両国にある江戸東京博物館で家光時代の寛永天守の模型を見たことがある.国宝の松本城と並べられて大きさが比較できた.とにかく巨大.周りを圧倒していた.正に将軍家の天守に相応しい.

しかし,完成からわずか20年後の明暦三年.事件が起きた.この年は前年から雨が少なく空気が乾燥していた.予兆はあった.正月早々から,小さな火事が何件か発生している.

事件当日の1月18日,本郷本妙寺から出火.その日から次の日にかけて小石川,麹町の三箇所に火の手が上がった.折からの強風で飛び火が舞い,恐るべき速さで延焼した.明暦の大火,世に言う振袖火事である.

この火事は3日間燃え続け,江戸市街地の60%を焼失.10万人もの死者を出した.江戸城は西の丸をのぞいて焼失.天守も焼け落ちた.

時の将軍は四代家綱.保科正之が後見として強力に幕政を支えていた.正之主導のもと,焼け出された民の救済活動が始まった.新たな江戸の街づくりは道幅や川幅を広げ,火除け空き地や防火堤を作り防炎性能を向上させた.

正之は先の将軍家光の異母兄弟にあたる.二代将軍秀忠の子供だ.ただし正室の子ではない.恐妻家で知られる秀忠は決して隠し子の存在を認めなかった.このため,正之は父に会えず不遇な幼少時代を過ごすことになる.幼少の正之は武田家ゆかりの保科正光に預けられ,保科姓を名乗った.

家光に見出され幕政に係わるのは秀忠死後のことである.後に松平姓を与えられるが,自分を育ててくれた正光に義理を感じ,死ぬまで保科姓で通した.松平姓を名乗るのは二代目以降である.少年時代に苦労を重ねた正之は二度と自分のような犠牲者を出さないように願い,善政を行った.

世の中は平和になり,家康から続く武力で人を抑える時代は終わっていた.そこでまず,殉死を禁止.藩主の死によって有能な人材が失われるのを防いだ.また,末期養子の禁を緩和し,お家断絶を減らし,浪人の増加を防いだ.さらに大名証人制度を廃止した.大名保証人制度は諸大名の正室や長男を人質として江戸に住まわせることである.正之は親と離れ離れに過ごした自分の幼少時代を思い出し,この制度を廃したに違いない.

制度の改革以外にも生活を便利にするための土木事業を進めた.特筆すべきは玉川上水の開削だ.これで安定して江戸に水を供給できるようになった.玉川上水は今も東京に住む人々に恩恵を与えている.

幕政に係わってからの正之はほとんどを江戸で過ごしたが会津藩の藩主である.正之の定めた『会津家訓十五箇条』の一条には『政事は利害をもって道理を曲げるべきではない.詮議は私意をはさみ人言を拒ぐべきではない』との文言がある.正之の精神は会津藩の魂に脈々と受け継がれた.

正之は家康から続く武断政治を,徳によって治める文治政治へと転換した.戦国の世は終わり,武力で人を抑え付ける時代ではなくなっていた.戦いが無い以上,江戸城に天守は必要ない.正之は考えた.天守を造ることで財を浪費するよりは焼けた町の再興を優先すべきだ.

正之の意見が取り入れられ,天守の再建は見送られた.これ以降,八代将軍吉宗の頃に天守再建計画が上るものの実現せず,再び天守台に天守を戴くことはなかった.

最近,江戸城の天守再建の話しが持ち上がっているという.しかし,江戸城に関しては天守がないのが歴史的に見た正しい姿.ないものが語る歴史というのもまた趣があってよい.天守の再建よりは正之の精神を後に伝えるべきではなかろうか. (2007/7/16)

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中村 彰彦 「名君の碑」 文春文庫

正之はことばをついだ.「さりながら豊臣家が大坂城に滅ぶまで,天守閣がいくさのおりに要害として役立った例は史書に見えませぬ.すなわち天守閣とは,そこに登りさえすればただ遠くまで見えるというだけのしろもの.大火後の公儀の作事がさらに長引くならば下々の暮らしむきの障りになるやも知れず,いまはかようの儀に国家の財を費すべき時にあらず,とそれがしは愚考つかまつります」

 

大手門

百人番所

同心番所

本丸天守台

富士見櫓

北詰橋門

二の丸庭園

巽櫓

二重橋

桜田門

日比谷見附跡


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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