牛の産地として有名な松阪は,天正16年(1588)に蒲生氏郷が築いた松阪城の城下町として発展した.元和元年(1619)に徳川頼宣の紀州藩に編入された後は商人の町として栄え,現金掛け値なしの商法で成功した三井高利などの松阪商人を輩出している.
この町が輩出したもう一人の偉大な人物が本居宣長である.『宣長さん』地元の人は親しみを込めてこう呼ぶ.教科書で見る宣長像からは江戸中期の国学者,古事記伝の著者などと堅苦しい印象を受けるが,かなり変わった人のようだ.私とは分野が全く違うが,根っからの研究者といえようか.
病的な症状が記録魔である.宣長が残した日記は宣長自身が生まれた日の出来事から始まる.もちろん本人が覚えている訳もなく,親から聞いた話しであろうが,自分の生まれる日から始まる日記を他には見たことがない.
宣長は商人の家に生まれるが,宣長の学問好きな様子を見た親は,宣長を商人にすることをあきらめ,医者として生計を立てることを勧める.5年半に及ぶ京都遊学を終えた宣長は医者を開業.死ぬまで町医者として生計を立てた.もちろん膨大な診察の様子も記録として残されている.遠いところでは,宇治までの道を薬箱をぶら下げて往診したという.
松阪は伊勢参宮街道や和歌山街道を行き交う旅人で賑わい,宿場町として栄えた.今でも古い町並みが残されている.松阪駅から松阪商人の館や三井家発祥の地などの古い町並みを通り,松阪城にたどり着いた.
明治10年の失火によって現在では石垣のみを残す松阪城址からは,御城番屋敷が一望できる.松阪を代表する風景だ.松阪御城番とは城の警備を任務とする20人の紀州藩士とその家族が住んだ組屋敷だ.今でもその子孫が維持管理している.今でも実際に生活しているため,観光するときには迷惑にならないように注意をしたい.
現在,松阪城址には,本居宣長記念館が建つ.ここに展示されているものを見ると,宣長の記録魔ぶりがよく分かる.毎日の食事の記録,お金の貸し借りの記録.購入品目の記録.宣長に係わったありとあらゆるものが記録されている.
その中で目についたのが,子供の頃に書いたといわれる中国歴代の皇帝の家系図だ.よく見るとところどころが赤い線で区切られている.これを理解するためには,中国の歴史と日本の歴史の相違について知らなければならない.
中国では革命が起き,皇帝が変わるたびに前の皇帝は殺される.この赤い線の区切りは革命によって皇帝が変わったことを表している.皇帝の血のつながりが途絶えたことを意味するのだ.しかし日本の歴史はどうであろうか?平家のように滅ぼされる例もあるが,徳川慶喜は明治になっても生き伸び,その子孫は今でも存在するし,天皇家の血筋は太古から続く.
子供のころに書いたこの家系図は宣長の国学の原点だ.中国と日本の歴史の相違を感じとった宣長は,中国由来の孔子の思想ではなく日本固有の思想を探求し始めた.特に,源氏物語や現存する日本最古の歴史書である古事記を研究し,日本固有の情緒は『物のあはれ』だという考えにたどり着く.
宣長は研究で疲れたとき,鈴の音を楽しむことで心を癒した.自宅の二階の書斎を鈴屋と名付け,鈴の音を楽しんだ.この建物は本居宣長記念館の横に移築されており,土間からではあるが内部を見学することができる.
さて,宣長の記録魔ぶりの極めつきは遺言書である.葬式のやり方から墓の構造までこと細かく指定しているのがなんとも宣長らしい.宣長の墓は遺言の通り松阪市内の樹敬寺と奥墓(おくつき)の二箇所にある.
小林秀雄の著書『本居宣長』はこの遺言書の話題で文章が始まる.タクシーの運転手も奥墓のことを知らず,一緒に探すという話しだ.何とか奥墓を一目見たい.松阪市街から南へ約7キロに位置する.歩くには時間がかかる.バスを調べたが近くまで行くバスの本数は極めて少なく時間が合わない.
駅前の観光センターへ行き,行き方を訪ねてみたがタクシーか自転車しか方法はない.タクシーに乗って往復するだけの金銭的余裕もなかった.観光センターでは自転車を貸し出してはいるが,閉店まで後1時間.名古屋から来た旨を伝えると,30分くらいは待ってくれるという.好意に甘え40分走ってたどり着かなかったらあきらめて帰ってくることを条件に自転車を借りた.
坂道だからと貸してくれたのは電動機付き自転車.急いで飛び乗り,地図を握りしめて奥墓へと向かった.始めは平坦な道が続く.電動機付き自転車に乗るまでもなかったと思っていたら,少しずつなだらかな上り斜面に変わっていく.リミットの40分まで残り少ない.道に迷っている時間はない.途中で地元の人に道を訪ねると「あぁ,宣長さんね」といって親切に教えてくれた.
奥墓に近付くにつれて斜面が急になる.電動機付き自転車のはずだが,充電切れだろうか,アシストしてくれない.むしろブレーキ代わりになっているのではないか?前を走る妻の自転車は軽やかだというのに….あまりに急な坂に自転車を漕ぐのをあきらめて押して走り始めた.時間がない.体力的にももう限界だ.とあきらめかけた時に,奥墓がある妙楽寺の参道にたどり着いた.風情のあるいい参道だが情緒を楽しむ時間がない.自転車を止めて,階段を駆け上がる.
何段くらい駆け上がっただろうか.よく覚えていない.無我夢中だった.ようやく奥墓が目に飛び込んできた.宣長の遺言書に書かれている図の通りだ.遺言の通りに山桜も植えられているが,桜の時期にはまだ早い.宣長はここから松阪を見守っているのだろう.すがすがしい風が通り抜けた.しかし,ゆっくりしている時間はない.自転車を時間通りに返すべく,来た道を汗だくになりながら引き戻した.行きは上り坂.帰りは下り坂なのが幸いした.
宣長は純粋に鈴や桜が好きで,少し病的に熱心な研究者であったのだろう.しかし,明治以降は国家主義へと扇動するために利用された感がある.宣長の詠んだ歌,
敷島の 大和ごころを 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
は日本人の心とは朝日に照らされた桜のようだと桜の散りぎわの潔さを賛美した歌である.しかし後の人は,これを武士道と重ね合わせ,歴史の中では歪んだ解釈をするようになった.神風特攻隊の最初の四部隊が,この歌から『敷島隊』『大和隊』『朝日隊』『山桜隊』と名付けられたのは有名な逸話である.
歴史解釈のバランスは非常に難しい.一歩間違えるとおかしな方向に人々を扇動する可能性を秘めている.『歴史の歩き方』を書き始めてから特に強くそう思うようになった.私は純粋に歴史を楽しみたい.そして楽しさを伝えたい.ただそれだけである.そのためには正しく様々な視点から歴史を知らなくてはならない.(2005/4/2)
|