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宇喜多秀家が見た岡山を歩く
そりゃ宇喜多はんやね.この一言で決まった.

岡山藩の歴代藩主は池田公である.岡山を歩くにあたって誰に焦点を当てるかで悩んでいた.初代・池田忠継は『西国将軍』と称された姫路藩主・池田輝政を父に持ち,家康の娘を母に持つ.家康の外孫に当たることからも親藩として重要な位置を任され5歳で岡山藩主となった.

3代光政は文治政治の藩主で水戸の徳川光圀や会津の保科正之と並び称される名君だ.4代綱政は文化人として名を残し後楽園を築庭した.最後の藩主11代茂政は水戸斉昭の9男で,最後の将軍慶喜の実弟である.幕府と新政府の板ばさみにあい目立った功績はない.

備前国31万石は大大名とはいえない.しかし岡山は気候が穏やかで住みやすい.豊かな国だったに違いない.個性の強い名君がいてもよさそうなものだ.出発する前に一通り歴代藩主を調べてみたが正直ぱっとしない.暗愚ではないが,華やかさがないのだ.誰に焦点を当てればいいのか分からなかった.

以前,飛行機で知り合った岡山の大学生が「岡山はのんびりしとるから,皆離れたがらへんけん」と話していたのを思い出す.こののんびりした気質は藩主にも通じているのかも知れない.現地を歩くうちに誰に焦点を当てるか決まるだろう.そう考えて岡山の地を踏んだ.

駅の前では桃太郎の像が出迎えてくれる.ここ岡山は桃太郎伝承の地でもある.東西には桃太郎通りが貫き,路面電車が並走する.東には旭川が流れ,そのほとりに岡山城が建つ.川を挟んで中洲にあたるところが後楽園だ.途中下車の旅だったが町歩きには手ごろな距離だ.

大通りもいいが,歩くのは狭い通りの方が楽しい.城を目指して歩き始めた.少し歩くと岡山中央中学校.前には岡山藩藩校の址碑がある.名君として名高い光政はこの地に藩校を創設し,陽明学者として名高い熊沢蕃山を招聘した.今でもこのあたりを蕃山町という.広く親しまれていた名残だろう.戦前までは講堂や校門が残っていたが,残念ながら岡山空襲で焼失した.今では址碑が立つだけだ.

岡山は昭和20年の空襲で壊滅的な被害を受けた.市街地は一瞬で猛火に包まれ中心部の80%が焼き尽くされたという.藩校跡の東,岡山神社の随神門は空襲で焼け残った数少ない江戸時代の遺構だ.5代継政によって建てられた.

継政はあまりに地味だ.やはり光政か.そんなことを考えながら堤防を上る.ここからの城の眺望はすばらしい.旭川を外堀とする天然の要害だ.城に見惚れながら鶴見橋を渡り後楽園に入った.金沢の兼六園,水戸の偕楽園と並ぶ日本三名園の一つに数えられる.

入り口に歴史ガイドの説明員がいた.率直に悩みを打ち明け,岡山に影響を与えた歴史上の人物を一人あげるなら誰かを聞いてみた.その答えが,はじめの一言である.「そりゃ宇喜多はんやね」

宇喜多公は池田公が入府する以前の藩主である.初代・宇喜多直家は岡山で数々の戦功をあげ戦国大名にのし上がった.ここでいう宇喜多はんとは2代目・宇喜多秀家である.秀吉に気に入られ,養子扱いの処遇を得る.名前に『秀』の字が与えられ豊臣秀家を名乗った.秀家は秀吉の天下統一のために各地を転戦.備前備中播磨を領する大大名になった.

岡山発展の基礎を築いたのは秀家である.池田公は秀家の城下町づくりを引き継いだのだ.確かに適任かも知れない.そう考えると後楽園をそこそこにして城へと向かうことにした.

岡山で町造りを始めたのは父・直家である.石山にあった城を改修し本格的な城造りを始めた.秀家は天守を石山から東の丘陵岡山に移した.これが現在の天守の場所だ.近世城郭のさきがけで城下町を含めた縄張の基礎が作られた.

岡山城は烏城と呼ばれその名の通り黒である.豊臣大名は黒を基調とした城を建てた.これは秀吉が関白と侍従の枹色である黒にこだわったからだ.ここ岡山城をはじめ熊本城や松山城などが代表的な豊臣時代の黒い城だ.その反動からか徳川時代には源氏の白を基調とする城が好まれた.白亜の姫路城が代表例だ.

岡山城天守の特徴は何といっても最下段の下見板である.幅広く力強い下見板の上部には連格子窓,華燈窓など華やかで多彩な飾りつけが施されている.極め付けが金箔瓦だ.黒の中に金は映える.遠くからでも光輝く権力の象徴だ.天守を見上げると,金箔瓦が輝いている.上から三層までは…

残念ながら岡山城天守は空襲で焼けた.現在の城は外観だけを真似たコンクリート造りだ.その際には金箔瓦は再現されず,平成11年に築城400年を記念して金箔瓦が施された.しかし予算不足のため三層のみの復元となった.なんとも中途半端な出来栄えだ.戦争での焼失が何とも残念だ.岡山城と名古屋城は空襲で失った最も残念な城であろう.

戦火を免れた場所もある.月見櫓と西の丸西手櫓だ.石垣も当時のものをよく残している.その様相はまるで石垣博物館だ.石垣は時代と共に技術革新し,その組み方から年代が分かる.秀家の時代の石垣の上に池田の石垣を組んだ.秀家時代の石垣が一部掘り起こされている.

さて宇喜多公の菩提寺が近くにあるという.「寺らしくないので分かり難いかもしれません」と念を押され大体の場所を教えてもらった.付近に幾つかの寺社がある.寺らしくない寺を探す.普通のビルの前を通るとそこに宇喜多公菩提所とあった.光珍寺.ここに違いない.

こんなところに墓があるのか.ビルに入るが誰もいない.ずうずうしくも入り込み,エレベータに乗って上の階に上がる.すみませんと声をかけるが誰もいないし墓もない.諦めて出ようとすると出入り口に電話機が.御用の方は電話下さいと書かれている.

せっかくここまで来たのだからと恐る恐る電話する.「秀家の墓所があると聞いて来たのですが」と尋ねると「墓は八丈島です」との返答が.ここにあるのは何かを尋ねると,3階に父直家の位牌があるという.許可を取ってもう一度立ち寄らせてもらった.先ほどは何もないと思ったが,確かに剣酢漿草(けんかたばみ)の家紋.直家の位牌だ.

秀家は家康や前田利家らと共に五大老に任じられ,豊臣政権の中枢にいた.正室には利家の娘で秀吉の養女となった豪姫が迎え入れられた.しかし秀吉没後はお家騒動で歴代重臣が離反.関ヶ原の戦いでは石田三成につき敗走した.その後,難を逃れ島津に身を寄せるものの,最終的に身柄は幕府に引き渡された.

島津や前田の懇願により死罪は免れたものの罪人として八丈島に流された.豪姫の前田家からは死ぬまで援助が続けられ,釣りをしながらのんびりと余生を過ごしたという.明暦元年(1655)に83歳で没す.関ヶ原を戦った武将の中では最も遅い死だ.時代は4代将軍家綱の世になっていた.

大名としての宇喜多は滅亡したが,その血脈は八丈島で受け継がれ,今も子孫が八丈島で墓を守り続けているという. (2008/5/17)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない

 

宇喜多秀家公

岡山藩藩学跡

岡山神社随神門

後楽園

月見櫓

宇喜多秀家の頃の石垣

不明門

岡山城天守

宇喜多公菩提所光珍寺

宇喜多直家公位牌


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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