関ヶ原の戦い後,家康は多くの大名の国替えを行った.見知らぬ土地に行き,新たな町を興すには多くの人足を疲労させ財を消費する.国替えは恩賞を与えるという口実の元で大名を消耗させ反乱させないようにするための政策であった.
山内一豊には長宗我部の領地であった土佐二十万石が与えられた.当然,長宗我部氏の旧臣は新領主に反発.一豊は山内家中の武士を上士,長宗我部の郷士を下士と定め,武士の中にも厳しい身分制度を取り入れ,上士と下士の差別化を図った.坂本龍馬は商人あがりではあるが下士の出身である.そのために最後まで土佐藩の政治の中枢に入ることができず脱藩した.
黒田長政には筑前五十二万石が与えられた.商人主体の自治都市であった博多への移封である.長政は博多の近くに城下町を造り,黒田家の縁地である備前国邑久郡福岡村に因んで城下町を福岡と名付けた.地元商人が住む博多と新しく入国した武士が住む福岡の対立である.これらは近くにありながらも別の町として機能した.
1889年に市町村制度が制定されると,これら二つの町の合併が決まり,市名を博多にするか福岡にするかで意見が割れた.最終的には福岡市となったが反発も強く,同年に開通する鉄道の駅名を博多とすることで,政治的決着がついた.
このように新しい領主と土着の民の対立は各地で見られた.
さて熊本である.加藤清正が熊本城に入城し統治を開始するが,二代目忠広で御家断絶.寛永9年(1632)から廃藩置県が行われるまでは小倉藩から移封された細川家による統治が続いた.
清正は秀吉の遠縁であるとはいうが,所詮は秀吉の子飼いである.それに対して,細川家は清和源氏の流れを汲む有力守護大名の家柄.室町時代には幕臣である三管領の一つとして勢力を誇った程の名家だ.
細川家にとって熊本の城下町の基礎を築いた清正の名声は煙たいものであったに違いない.築城の名手と呼ばれた清正の名声をかき消したいと思ったに違いない.その証拠に,熊本に入った細川忠利が一番最初に行ったのは城内の改造を幕府に届け出ることであった.
加藤家の治世が40年余りに対して細川家の治世は240年.清正の名声を忘れさせるには十分過ぎる年月だ.
それでも,熊本といえば,やはり清正である.400年経った今でも地元ではセイショコさん(清正公さん:せいしょうこうさん)と呼ばれ親しまれている.
熊本城に登った時に係員に尋ねてみた.なぜ,熊本といえば細川ではなく清正なのかと.熊本城の素晴らしさに対する答えを期待して出した質問であったが,係員の答えは少し以外だった.
「やはり土木でしょうね」
清正のすごさは熊本城を見ればよく分かる.とにかく石垣が素晴らしい.武者返しと呼ばれる反りが特徴的な石垣は機能的であるだけではなく,芸術的でさえある.熊本城は,大坂城,名古屋城と並んで日本三名城に数えられる.ちなみに,名古屋城も清正の築城だ.
しかし,「やはり土木でしょうね」の言葉通り,清正の業績は城だけではない.治水工事にも手腕が発揮され,随所に熊本の土地を豊かにするための工夫が施されている.
阿蘇を水源とする白川は,阿蘇の火山灰を熊本の町へと運ぶ.しかも,火山灰によって川底が高くなるため氾濫を繰り返した.清正は白川の随所に鼻ぐりという水流が土砂を巻き上げる機構を設けることでこの問題を解決した.江戸時代に清正の土木事業を調査した鹿子木量平は『勝国治水遺』に,鼻ぐりが80箇所ほどあったと記録しており,今でも24箇所が現存するという.
それ以外にも,石塘によって白川と坪井川を分離して土砂が流れ込まない様にし,清正堤と呼ばれる堤防によって流域の水田を護った.清正は熊本の生産力を向上させ,国を豊かにした.
明治時代になって熊本は九州の主要都市に位置付けられ,熊本鎮台や第五高等学校など九州を管轄する国家機関が設置された.その礎は清正が作ったのだ.
この熊本に大打撃を与える事件が明治10年に起こった.西南戦争である.西郷隆盛を盟主とした最後にして最大の士族による武力反乱は,熊本を舞台に繰り広げられた.
この戦争で熊本城天守は焼失.城内の多くの建物が燃え,戦火は民家や田畑にも広がった.宇土櫓や北十八間櫓,東十八間櫓など延焼を免れ現存する建物は重要文化財に指定されている.
来る2007年で熊本城は築城400年を迎える.これを記念して熊本城復元整備計画が進められている.熊本城を往年の勇姿に戻そうというのだ.焼失した建物が順に復元されつつあるが,中でも本丸御殿大広間の復元は重機械を使う現在でもかなり大がかりな工事だ.現在の復元工法を見ながら当時の工法を思い描いてみた.陣頭には手際良く指示を出す清正がいる.
清正の菩提寺は日蓮宗の本妙寺である.繁華街からは少し離れるが是非ともここまで足を伸ばしたい.本殿には清正の父忠清が祀られている.本殿を過ぎ,所狭しと石灯籠が並ぶ胸突雁木と呼ばれる参道を登ると,清正を祀る浄池廟が建つ.
浄池廟の裏へ回るとまた石段が続く.300段あるこの石段を上り詰めると清正の銅像が建つ.ここから見る熊本市内の眺望はすばらしい.霧雨が降る生憎の天気ではあったが,晴れていると阿蘇まで見渡せるという.清正の銅像はいつもこの山から熊本市内を見守っている.
清正と言えば石田三成や小西行長と対比して描かれることが多く,三成や行長を文治派,清正を武断派と見る向きが多い.賤ヶ岳の七本槍や朝鮮出兵での虎退治など武断派を象徴するようなエピソードも数多く残るが,熊本の町造りを見ると清正を単純に武断派の一言で片付けることはできない.
(2005/12/15~17)
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