東海地方から名神高速を西に走る.そろそろ関西だと感じる地点を挙げるなら,それは関ヶ原である.誰もが知っている有名な場所であるにも関わらず,いつもは通過点.歴史を感じるために寄り道することにした.
天下分け目の戦いで名高い関ヶ原では,歴史上の転換となるような二度の大きな戦いがあった.一つは徳川家康と石田三成が戦った関ヶ原の戦い(1600)であり,もう一つは大海人皇子と大友皇子が戦った壬申の乱(672)である.
壬申の乱で勝利した大海人皇子は即位して天武天皇となった.勝敗は決したがまだ天下の騒乱が治まったとはいえない.この地に不破関を置き通行人を改めた.大宝律令では伊勢の鈴鹿関,越前の愛発(あらち)関を含めて三関(さんけん)と定めた.鎌倉時代にはこれらの関より西を関西と呼んだというから,関ヶ原を過ぎると関西と感じるのも至極当然である.
なぜ,天下を二分するような大きな戦いがこの地で起きたのか.それを知るためには関ヶ原の地理について説明せねばならない.関ヶ原を東西に横切っているのが京と江戸を結ぶ中山道である.そして中山道からは北西に通じる北国街道(北国脇往還)と,南東に通じる伊勢街道(牧田街道)が分岐している.
これらの分岐点には道標が立っていたとみえ,『北国ゑちぜん』や『南いせ』などと書かれた四本の道標が歴史民族資料館前に移されている.関ヶ原は主要街道が交わる交通の要所である.この地で軍勢が衝突したのもうなずける.
歴史民族資料館で散策マップを手に入れ,道一本はさんで隣にある床几場へと向かった.家康が最後に東軍の指揮に当たった場所であり,戦いの後には首実検を行った場所として伝わっている.
最初,家康は桃配山に陣を敷いた.大海人皇子が壬申の乱の際に兵に桃を配って叱咤激励したことから名付けられた山である.しかし,硝煙が立ち込めて詳しい戦況が分からないことから床几場へと移動したと伝わっている.なぜこのように見晴らしの悪いところに移動したのだろうか?疑問に思う.
それに比べ,三成が陣を敷いた笹尾山は見晴らしがいい.関ヶ原が一望できるのだ.なぜ,このような地の利を得ながら三成率いる西軍は負けたのか?石田三成陣跡である笹尾山から関ヶ原を眺めてそう思った.
明治政府の軍事顧問であるドイツのメッケル少佐は関ヶ原の陣形図を見て,即座に西軍の勝利を信じたという.陣形に家康軍を囲む鶴翼の陣を見たのだ.しかし事実は違った.両翼に位置する小早川秀秋は裏切り,毛利秀元は動かなかった.結果はよく知られている通りである.
捕らえられた三成は京都六条河原で斬首に処せられた.
これまで,桶狭間や長篠など幾つかの古戦場を訪れて来た.古戦場とは言っても記念碑が立つ程度の場所である.これまで古戦場であまり人と出会うことはなかった.しかし,ここ関ヶ原は違った.初冬で肌寒く感じるにも関わらず,たくさんの人が歩いている.勉強会のようなグループも複数見かけた.近年の三成人気によるものだろうか?
三成といえば,あまり良い印象を持たない人が多いかも知れない.陰険・横柄・戦下手などのイメージが付きまとう.しかし,ネットなどでの人気投票では必ずといって良いほど上位に名前があがる.熱狂的なファンも多いのだ.
多くの人が持っているであろう三成に対する印象は江戸時代の中期に作られたものだ.江戸初期の評価は高かった.20万石にも満たない所領の三成が,240万石の家康と互角に渡り合ったのである.秀吉から恩恵を受けた多くの領主は豊臣を裏切り,家康についたにも関わらず,三成は最後まで豊臣家のために戦った.正に義臣である.
『桃源遺事』によると水戸黄門で有名な徳川光国は三成を高く評価している.徳川の敵ではあるが悪くいうべきではなく,君臣とも三成のように心がけるべきだと褒め称えている.
しかし,江戸中期になると,幕府の御用学者が徳川幕府を正当化するために,三成と淀君を悪く書き立てた.多くの人がもつ三成のイメージは徳川幕府によって作られたものだ.それが今なお広く根付いている.
三成の評価を見直すきっかけを与えたのは,意外にも昭和34年の伊勢湾台風である.五千名近い死者を出したこの台風は愛知県下の旧家の土蔵を破壊した.家主が崩れた土蔵の整理をしていると,そこから大量の古文書が出てきた.『武功夜話』と呼ばれる史料である.そこに描かれている三成はこれまでの陰険・戦下手な三成像とは大きく掛け離れており,三成の評価を見直すきっかけとなった.
さて関ヶ原に話しを戻そう.
一通り主要な場所を巡った後,松尾山にある小早川秀秋陣跡と大谷吉継の墓まで足を伸ばしたいと思った.地図を見ると少々距離がある.よくよく考えると昼前に簡単な食事をしたまま,飲まず食わず.空腹を感じた.腹が減っては戦はできぬと空腹を満たした頃には日が暮れかかっていた.
史跡を廻った後に文章を書いているとほぼ例外なく足を延ばしておけば良かったと後悔する箇所が残る.時間や体力の都合上,全ては廻れない.仕方のないことではある.関ヶ原は交通の要所だ.通る機会は多い.また来た時に寄り道しよう.今度来る頃には世間の三成に対する評価は上がっているかも知れない.
(2005/11/12)
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