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徳川慶勝が見た名古屋を歩く
私が勤務する研究所は名古屋市のはずれに位置する.先日,韓国国営放送KBSから名古屋市を通して研究所の取材を受けた.

今,韓国では韓国新幹線KTXが開業し,ソウル−釜山を最高時速300キロ,2時間40分で結ぶ.便利にはなるが経済の二局集中が心配だ.ソウルと釜山の間にある都市,東大邱(トンテグ)や光明(クァンミョン)の経済を発展させることはできるのか?

名古屋は東京と大阪の間に位置するにも関わらず,経済は好調.その秘密を探ろうというのが取材の趣旨である.

歴史的に見れば名古屋が栄えた最大の理由は,徳川と豊臣の対立である.家康関ヶ原の戦いに勝利したものの西に憂いがあった.豊臣秀頼と大阪城である.

江戸に幕府を開いたとはいえ,全国には豊臣恩顧の大名が点在.さらに,秀吉が築いた大阪城は堅固で,しかも経済の中心に位置する.秀頼自身の出陣によって第二の関ヶ原が始まる恐れさえある.

慶長14年(1609)家康は自身が生まれ育った東海を大阪への牽制の拠点に位置付け,清洲から名古屋へ遷府.家臣や町人,城や寺社はもちろん,橋や町の名前までを名古屋に移した.世にいう『清洲越し』である.

町の中心に位置する名古屋城は,西国諸大名の天下普請によって築城.御三家筆頭の尾張家の居城とした.普請奉行は加藤清正.縄張は藤堂高虎によるものだといわれている.

名古屋城の石垣には所々に紋が刻まれている.石垣の築造を命じられた大名はこの刻紋によって自分の運んだ石と他大名の石を区別した.風化して読みにくいものも多いが今も残る.また,清正石と伝わる石の大きさにはただただ驚くばかりである.

名古屋城といえば,やはり金鯱.天守の頂きに雄と雌の一対が並ぶ.

金鯱とはいっても,中まですべてが金ではない.寄木に鉛板・銅板を張り,その上に薄い金の延板をかぶせている.作られた当初,慶長大判1940枚分の金が使われた.当時,大判1枚で5石5斗の白米が買えたというから,単純換算で50万円.総額10億円である.庶民にとって米は贅沢品.実際の価値は10倍にも100倍にもなるだろう.

この金鯱,何度か尾張藩の財政難を救っている.享保15年(1730)天守閣修理の際には,鱗が改鋳され純度の低い金に取り替えられた.その後も二度,銀・銅・鉛が混ぜられ金の純度は低くなっている.藩の財政が厳しくなるに連れて,天守の輝きは鈍くなった.

明治になってからの金鯱は数奇な運命をたどる.明治5年,東京の湯島聖堂で開催された日本最初の勧業博覧会に出品.江戸っ子の人気を集めた.

翌年には,オーストリアで開催されたウィーン万博に雌が出品.初めて海外に渡った.さらに,残った雄は石川や大分など日本各地の博覧会で展示され,人気を集めた.

金鯱のない名古屋城.苦々しい思いで見ていたのは,最後の藩主,徳川慶勝ではなかろうか.慶勝は尾張支藩の高須藩出身である.尾張藩は御三家筆頭ということで,宗家から養子を押し付けられることが多く,地元の金鉄党は宗家からの養子に反対.慶勝を担ぎ上げた.

慶勝は,初代義直の遺命である『王命によって催さるる事』を奉じ,尊皇攘夷を主張.御三家筆頭として徳川と朝廷の間の板挟みにあった.

象徴的な事件が,青松葉事件である.

慶応三年(1867),王政復古の大号令が発せられ,新政府が樹立.慶勝は副総理格の議定(ぎしょう)に就任.京都で政務を執った.年が明けて,鳥羽伏見の戦いが始まった頃,名古屋から慶勝の元に一通の密書が届いた.

国許で佐幕派の一味が幼君義宜を奪って江戸に下り,幕軍に合流しようと企んでいる.帰城して,姦徒を鎮圧願いたい.

直ちに慶勝は勅書を拝して京を発ち,名古屋城二之丸御殿で御前会議を開き,渡辺新左衛門在綱,榊原勘解由正帰,石川内蔵允照英の三重臣を

「朝命によって死を賜るものなり」

と告げ,斬首した.理由は説明されず,抗弁の機会さえ与えられなかった.さらに,続け様に関係する十一士を斬首した.

慶勝は議定の地位にはいたものの新政府の主要メンバーである長州藩に憎まれていた.慶勝は第一次長州征伐の征長総督だったのだ.征伐に屈した長州藩は三家老と十一士を処刑して幕府に恭順の態度を示した.青松葉事件の犠牲数と一致しているのは偶然ではないだろう.

今となっては三重臣が斬首された正確な場所は分かっていない.二之丸御殿と伝わるだけである.名古屋城内に青松葉事件之遺跡の石碑がひっそりと立っている.事件の物悲しさを知る者のみが哀愁を感じる場所である.

慶勝は御三家筆頭ということで朝幕両陣営から利用され,同時に煙たがられた.徳川の時代から新政府の時代へと変革する時期にのみ必要とされた.

三重臣を犠牲にする.慶勝にとっては苦渋の決断だったに違いない.金鯱を差し出したのもひたすら新政府に忠誠を示して尾張藩の安泰を図ろうとするためであった.しかし,これらの努力虚しく後に議定を免ぜられ,再び政界に戻ることはなかった.

明治の間,尾張藩出身で大臣にまで上り詰めたのは田中国之輔と加藤高明の二人だけである.薩摩・長州の藩閥政治の元で尾張は邪魔者であった.

しかし一方で,慶勝が苦渋の決断を迫られているころ,今の東海を支えているといっても過言ではないほどの人物が生まれている.自動織機を発明した豊田佐吉である.現在のトヨタグループの礎を作る人物だ.

名古屋の経済が好調な理由.それは豊田佐吉を輩出したことに尽きると思う.

さて,金鯱の行く末に注目したい.全国各地を巡業した後,明治12年に天守の頂に戻るものの,昭和になっても受難は続く.時は太平洋戦争の終わる昭和20年,空襲で落とされた焼夷弾が,金鯱を避難させるために組まれていた足場にひっかかり発火.天守とともに焼け落ちた.

戦後,焼失した金鯱の残骸は米軍によって押収され,名古屋市に戻ってきたのは昭和42年のことである.その時,金の茶釜に加工.二之丸庭園の茶亭にそのレプリカが飾られている.

一見派手で,中身は質素.倒れても立ち上がる,不屈の魂.金鯱と名古屋人の気質が被って見える.そんなことを考えながら江戸時代の街並みが残る那古野(なごの)の四間道(しけみち)を通って名古屋駅へと歩いた. (2006/2/18)

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城山 三郎 「冬の派閥」 新潮文庫

なぜ朝命が−.それは,御沙汰があって以来,慶勝がずっと考え続けてきたことでもあった. 親藩の筆頭.しかも,慶勝は慶喜といとこ同士.さらに,会津の容保,桑名の定敬,一橋の茂徳は,みな慶勝の弟たちである. 藩内には,茂徳の系譜の者も少なくない.その尾張が幕府につけば,薩長は東下できなくなる…. その意味では,大藩尾張がどう出るか,日本中の藩が注目していた.


 


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徳川慶勝公写真

正門

西南隅櫓

石垣の刻紋

清正石

名古屋城天守閣

金鯱

本丸御殿跡

青松葉事件之遺跡

東西隅櫓

乃木倉庫

真形釜丸八文様鯱常環付

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