ゴールデンウォークの最中,小田原の駅を降りると多くの観光客でごった返していた.あちこちに『北條五代祭り』と書かれたのぼりが立つ.明日から祭りが始まるようだ.武者隊の出陣式を前日に控え,街は待ちきれんばかりの盛り上がりを見せていた.
北条五代とは,北条早雲,氏綱,氏康,氏政,氏直を指す.早雲が明応4年(1495)に小田原を平定してから,氏政・氏直父子が天正18年(1590)に小田原征伐によって秀吉に屈するまでのおよそ100年,小田原は北条氏が関八州を統治するための本拠地だった.
駅を降りると『東口 小田原城』の看板が目に留まる.明日の武者隊によるパレードも東口にある小田原城が起点だ.しかし,今ある小田原城は北条氏による小田原城ではない.北条氏が滅びた後,その領土を受け継いだのは徳川家康だ.家康自身は江戸城を居城として,交通の要所である小田原は腹心の大久保忠世に任せた.現在の小田原城は大久保氏の手によるものである.
では北条氏の小田原城はどこにあったのか.今回は北条氏の城跡を歩きたい.迷わず皆の流れとは反対の西口に降り立った.空は雲ひとつない快晴だ.空を見上げると馬上の早雲像が目に飛び込んできた.早雲は牛の角に松明を灯して小田原を攻めたという.その故事にちなんで早雲の傍らには3頭の牛が控えている.
駅での喧騒が嘘のように人通りが少ない.大通りを渡り,民家の中を歩く.じんわりと汗ばみ夏を感じる陽気だ.すぐに長袖を脱いだ.小田原城といえば皆本丸のある新しい城へと向かう.中世の土塁の城はそんなにも人気がないのか.地図を頼りに地元の人に道を聞きながら北条時代の総構(そうがまえ)の遺構を求めて歩いた.
何度か道に迷いながらも民家のわき道からそれて急な坂道を登る.この辺りは敵の動向を観察するための城下張出だ.突然視界が開け,街を見渡すことができる.遠方に小田原城の天守が見える.地図からはその少し手前が北条時代の古郭であることが分かる.しかし眼下には何かがある訳でもない.ただ家と木が立ち並んでいるだけだ.
細い道を再び歩き始めた.少し歩くと民家が急になくなり,畑や竹藪ばかりになった.途中途中に広大な総構らしき遺構があるが,巨大過ぎて全容は分からない.道の北側一帯には土塁と空掘があるはずだ.そんなことを考えていると稲荷森の看板が現れた.小道を少し入ると竹林の中に空堀の遺構が目に飛び込んできた.北条時代の総構は周囲9キロにわたって土塁と空掘が張り巡らされていた.海岸にさえ土塁が盛られるという念の入れようだ.正に『城の中に街がある』と形容されるに相応しい総構だ.
残念ながら今では開発によって多くの遺構は消滅してしまっているが,この付近には見所が点在する.少し先にある小峯御鐘ノ台大堀切東堀は圧巻だ.幅20メートル,深さ12メートルの堀と土塁は当時の原風景をそのまま今に伝わる.50度の急勾配を目にすると敵もたやすく攻め入ることはできなかっただろう.
雨が降ったのはいつだったか.赤土の地面には水が溜まりぬかるんでいる.このような中を進軍することは容易ではない.その証拠に上杉も武田も小田原城に攻め入ることはできなかった.想像していた通り要害の城である.
北条氏の頃の小田原城は八幡山古郭の辺りにあったと推定されている.現在の小田原高校の場所だ.校内からは城の虎口の障子堀や井戸の跡などが発掘されているという.当時の城には石垣は存在しないため,今は地形からしかその遺構を偲ぶことはできない.高校は小高い山の上に位置し,駅へは長い階段が続いている.階段のはるか先には相模湾が広がる.風に漂う潮の香りの正体を突き止めた.
さて,話を早雲に戻そう.早雲の本名は伊勢新九郎盛時.実は存命中に北条早雲と名乗ったことは一度もない.北条氏を名乗ったのは2代目氏綱からだ.伊勢盛時の号は早雲庵宗瑞であることから,後世になってから北条早雲と呼ばれるようになった.ここでは慣例に従って盛時時代も含めて早雲で統一する.
早雲といえば斎藤道三と共に下克上の代名詞のように思われてきた.乱世に乗じて一介の素浪人から大名に登りつめたとされてきた.しかし,事実は少々異なるようだ.近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする説が有力である.政治の中枢にあって綿密に京と連絡をとりながら,関八州を手中にしたのだ.
堀越公方のあった伊豆を奪い,関東管領の山内上杉と扇谷上杉の争いに乗じて小田原を奪い,相模を平定し関東で勢力を拡大した.実質的に伊豆一国を支配しながらも伊豆の守護として任じられなかったことも早雲の下克上の物語が作られた理由の一つかも知れない.下克上ではなくとも戦国大名の先駆けだったことには違いない.
早雲から五代,氏直が当主の時に秀吉は小田原征伐を決めた.家督は氏直が継いでいたものの政治や軍事の実権を掌握していたのは氏政だ.あらかた天下の形勢は決まっていたが,氏政は最後まで秀吉からの上洛の命を拒んだ.堅固な小田原城がある限り北条氏が滅びることはない.そう過信していたかも知れない.
しかし,当時の東海以北の城は土塁を築いただけの質素な城である.それは小田原城とて例外ではない.小田原征伐は秀吉にとって北条氏を討つこと以上に諸大名に権力を誇示する目的があった.秀吉は22万を越える軍勢を動員し,小田原を見下ろす山に石垣の城を築いた.
北条記には「小田原勢肝をつぶし,こは関白は天狗か神か,かように一夜の内に見事なる屋形出来けるぞや云々」と驚きの様子が綴られている.石垣山一夜城の出現である.まさか一夜でできた訳はないが,巨大な石垣のある城の出現に北条氏は慌てふためいた.現在の小田原城のすぐ北側にある小高い丘には八幡山古郭・東曲輪が史跡公園として整備されている.そこから石垣山を臨んだ.石垣を認めることはできないが,22万の兵に取り囲まれた恐怖はいかばかりであったろう.
秀吉の目的は力の差を見せ付けることである.小田原を攻める訳でもなく連日連夜大茶会などを開き遊行に耽った.衆寡敵せずである.北条氏は降伏するしかなかった.氏直は高野山へ追放され,氏政は切腹を命じられた.氏政の墓所は駅前にある.こちらも繁華街の喧騒の片隅でひっそりと眠っている.
最近歴史散策がブームだという.それを反映するかのように現在の小田原城にたどり着くと,多く人でごった返していた.本丸のように分かりやすい歴史もよいが,土塁や墓所など隠れた史跡にも注目したい.次に小田原に来た時には石垣一夜城に登る予定である.こういった,つながりにこそ歴史の醍醐味があるのではないか.
(2010/5/2)
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