歴史の歩き方では初めての試みであるがヨーロッパ史について取り上げたい.こんな書き出しを考えていた.しかし,よく考えてみると女性を取り上げることも初めてである.ヨーロッパの女性文化を切り口に書き始めたい.
十八世紀のヨーロッパは女性文化の時代だ.貴族女性の社交は華々しい宮廷文化を作り上げ,庶民のファッションリーダーとなった.その象徴がマリー・アントワネットであろう.フランスのルイ十六世の妃となったアントワネット.その母親がマリア・テレジアである.
テレジアはハプスブルグ家カール6世の長女として生まれた.ハプスブルグ家はパリのブルボン家と肩を並べるヨーロッパ屈指の名家だ.ブルボン家がパリを作り,ハプスブルグ家がウィーンを作った.ウィーンという街はハプスブルグ家の首都ともいえる.
世界史を考える時,いつもその頃の日本の様子を思い浮かべる.テレジアが皇位に着いたのは1740年.江戸時代のほぼ真ん中に当たる.八代将軍・徳川吉宗の時世,享保の改革の真っ只中である.
カール6世は男児に恵まれなかった.現行法では皇帝の座を女性に相続させることはできない.そこで相続順位法を制定.周辺諸侯に長女への相続を認めさせた.この当時のウィーンは安定していたかに見える.しかし,西にフランス,東にオスマン・トルコの巨大帝国があり,ベルリンを都とするプロイセンなどの新興国家も勢力拡大を狙っていた.情勢は安定していたが脅威には囲まれていた.
カール6世が死ぬと同時に周辺諸侯は牙を剥いた.バイエルンは相続権を主張し,プロイセンは領国を侵し始めた.この時,テレジア23才.政治のイロハも知らない年頃の娘である.要求を呑まなければ王位を失うと忠告する側近もいた.しかし,テレジアは戦いを選択.オーストリア継承戦争の始まりである.
さすがにハプスブルグ家の生まれというべきか.テレジアには天性の政治感覚があった.特に人の才能を引き出す能力に長けていた.テレジアに抜擢された者は必ず大きな功績を残した.テレジアはオーストリア継承戦争で見事に帝国の威信を守り抜き,周辺諸侯からも一目置かれる存在となった.
この戦争でハプスブルグ家の弱点に気付いたテレジアは行政と軍隊の改革に取り組んだ.行政では命令の行き届きやすい中央集権を推し進め,軍隊の将校は身分を問わず実力主義で取り立てた.また野戦病院を整備するなど女性らしい気配りも見せた.弥が上にも士気は高まった.
マリア・テレジア広場にはテレジアと臣下の像が立っている.中心に座るテレジアを守るように四人の軍司令官が馬にまたがり,宰相カウニッツ侯,リヒテンシュタイン侯らのブレーンを従えている.台座にはハイドンやモーツアルトもいるという.テレジアはこれらの人に活躍の舞台を与え,皆がその期待に応えた.
この像の左右には威圧的な建築物が建っている.美術史美術館と自然史博物館だ.二つの建物は全く同じ外見を持ち,どちらに入れば良いのか戸惑う.どちらか一つを選ぶなら間違いなく美術史美術館だ.テレジアの右手方向だ.ハプスブルグ家の絵画や彫刻のコレクションを展示している.ブリューゲルやフェルメールなど教科書に出てくるような絵画を見るためだけでも入る価値はある.
美術史美術館を見た後は王宮方向へと歩く.王宮を抜けるとすぐに宮中御用達のケーキ屋デーメルがある.ウィーンはケーキの街でありカフェが多い.ここで少し休憩する.ザッハートルテはホテルザッハーのオリジナルだが,デーメルのトルテも有名である.軽食を取った後に甘いトルテを口にした.看板を見上げると1786年創業の文字が見える.
しばらく歩くと天を突き刺すような塔が一際高く目立っている.ザンクト・シュテファン寺院だ.この古く高い塔は街の中心に位置しウィーンのランドマーク的存在だ.この一画は繁華街に囲まれたウィーンで最も賑やかな区域である.数々のパフォーマンスが行われ,人が群がっている.夜になっても人通りが絶えないこの広場に重厚な寺院が静かに建っている.
ザンクト・シュテファン寺院の建設が始まったのは1150年頃のこと.途中,何度も改築を重ねて現在に至っている.そのため,建てられた時代の流行が随所に取り入れられている.ロマネスク様式の正面にゴシック様式の教会をつなぐ折衷的な構造は珍しく,しかも内部の祭壇はバロック様式となっている.また,カラフルなタイルが貼られた屋根が印象的だ.鋭い角度の屋根は冬の大雪を物語っている.
ヨーロッパは石で築かれた文化である.日本の木造文化はその多くが火事で燃え,地震で崩れ,戦争で失われた.それに比べて石で築かれた文化は往時の姿を残している.
シュテファン寺院の北塔と南塔は上ることができる.まずは高い南塔の階段を上る.この塔は1359年の完成だというから日本では室町時代初期の建築物だ.息をつきながら上った先はあいにくの修復中.工事用の布が覆われており,残念ながら見晴らしはあまりよくない
布の隙間から目線を落すと北塔が見える.ここよりも低いが見晴らしは良さそうだ.来たのと同じ階段を引き返し,今度は北塔を上る.こちらはエレベータ.ここからの景色は遮るものもなくウィーンの街が一望できる.カラフルに見えた屋根のタイル.表通りとは向きが違うのだろう.下からは気付かなかったが二匹の鷲が並ぶ.ハプスブルグ家の紋である双頭の鷲をデザインしたものだ.
ウィーンを訪れる旅人が逃せないところが2つある.1つがこのシュテファン寺院.もう1つがシェーンブルン宮殿だ.シェーンブルン宮殿は元々ハプスブルグ家の夏の離宮として建設された.そこにテレジアが大改築を手がけ,常時の住居とした.
街の中心地から歩くには少し距離がある.地下鉄を利用することにする.その間,6駅.
パリのヴェルサイユに対抗して建てられたというシェーンブルン宮殿.外観はメルヘン調・パステル調の黄色が塗られている.これはテレジアが好んだ色だ.テレジアンイエローと呼ばれ,ウィーンで黄色といえばこの色を指すという.
部屋も庭も広大で豪華だ.ここでテレジアが政務に就き,アントワネットが育った.テレジアの時代からおよそ50年後.『会議は踊る.されど進まず』といわれたウィーン会議の舞台にもなった.ハプスブルグ家がナポレオン失脚後に覇権を取り戻そうと諸侯を呼び寄せて開いた会議だ.連日連夜,舞踏会や音楽会が開かれた.言葉通り会議は進まず1年近く続いた.当時,人口三十万人のウィーンに各国から十万人の外国人が集まったという.
時間があればもう一箇所行きたいところがあった.カプツィーナー教会である.外見が地味なこの教会の地下はハプスブルグ家の納骨所になっている.ハプスブルグ家は死後,心臓は王宮のアウグスツィナー教会に,内臓はザンクト・シュテファン寺院に,そして遺体はこの教会の地下に安置するのが慣例だった.
大きいものから小さいものまで所狭しと並べられている数々の棺.全部で百三十八あるという棺が並ぶ光景はある種異様だがなんとも奇妙な感動を覚える.その中でも一際大きく周りを威圧しているのが,テレジアとその夫フランツ一世の合葬棺である.棺の装飾が美しい.棺の上には寄り添うように横たわる二人の像が飾られている.
スイスの小貴族に過ぎなかったハプスブルグ家が太陽の沈まない国とまでいわれ,イギリスとフランスを除くほぼヨーロッパ全土とアメリカの一部にまで領国を持つ一大帝国にのし上がったのは,政略結婚によって諸外国と血縁関係を結んだからだ.
『戦争は他家に任せておけ.幸いなオーストリアよ汝は結婚せよ』とはハプスブルグ家の家訓である.テレジアは優れた政治家であると共に16人の子供の母親であった.これらの子供たちの結婚相手はフランス王家との和平を目的としてブルボン家の縁者が選ばれた.プロイセンの台頭を牽制するための方策だった.
テレジア死後のことにはなるが,結果から見ればこれは最大の失策だった.フランス王妃となった末娘マリー・アントワネットには悲しい結末が待っていた.フランス革命の動乱のさなかにルイ十六世と共にコンコルド広場の断頭台で短い生涯を終える.
フランス革命は帝国瓦解の予兆であった.一砲兵士官に過ぎないナポレオンの台頭を許し,ウィーンは陥落.ハプスブルグ家はナポレオンに支配される.ナポレオンの失脚後はウィーン会議で覇権の復興を試みるがそれも長くは続かなかった.
その後,ウィーンは二度の大戦に深く関わっていく.ハプスブルグ家の皇太子フランツ・フェルディナントがサラエボで殺され,第一次世界大戦の引き金となる.この大戦に敗れたハプスブルグ家は滅亡.第二次大戦の原因の一つはこの時の戦後処理のまずさだ.ヒトラーを生み出したのもウィーンだ.若きヒトラーはウィーンに魅せられて建築家を志望.しかしこの街で夢破れ,政治活動に転身.第二次世界大戦を引き起こす.
暗い歴史の影に華やかさが彩られている.それがウィーンという街の歴史であり,魅力でもある.
(2007/4/9)
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