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松平定敬が見た桑名を歩く
東海道の宿場街として栄えた桑名は,隣の宿場街である宮宿(熱田)とは東海道唯一の海上ルートで連絡していた.船の往来は天候や潮の満ち干に左右される.宿場街は足止めをくらった多くの旅人で賑わった.

船の発着場所は航路の距離にちなんで七里の渡しと呼ばれている.ここから伊勢路に入ることから伊勢の国一ノ鳥居が建つ.この周辺は伊勢湾台風によって大被害を受け,後の高潮対策工事によって今では昔の面影は見られない.

七里の渡しの近くには,大名が宿泊した本陣があり,現在は料亭として船津屋が営業している.外観を見る限り敷居は高そうだ.脇には泉鏡花の歌行燈を戯曲化した久保田万太郎の句碑が立つ.

近くには歌行燈に登場する釜揚げうどんの味を今に伝える店がある.明治から続くこのうどん屋でうどんと蛤料理を食べ,東海道に沿って歩き始めた.

桑名は揖斐川に面する水郷の街であるにもかかわらず,地下水に海水が混じるため飲料水には困ったようだ.寛永3年(1626)に町屋川から道の中央に町屋御用水を掘り,その上に石をかぶせ,水を汲み上げるための正方形の升を開けた.通り井である.今でも通り井の跡には井の文字を書いた石がはめこまれている.

街を歩いていると桑名の殿様という文字を何度も目にした.祭りの宣伝文句のようだが古くから伝わる民謡のタイトルである.

桑名の殿さんヤンレ
ヤットコセヨイヤナ
桑名の殿さん時雨で茶々漬
ヨイトナ

と歌われる.殿様とは誰を指すのだろうか?疑問に思い,明治創業という老舗の菓子屋で聞いてみた.店主の推察では定信公ではないかと言う.江戸時代中期に老中になり,寛政の改革で厳しい倹約政策を行った松平定信である.

定信自身は,白河藩主であり,桑名の殿様ではない.先祖の地が桑名であったことから,嫡男・定永を桑名藩主に国替えさせたため,桑名と定信の結び付きは強いが定信が桑名の殿様の正体とは思えない.

後で調べたところによると,明治・大正期に桑名の米取引所で大もうけした旦那衆が,東京の赤坂や日本橋の芸者衆と大いに遊び,酒宴の最後に時雨茶漬けを好んで食べたことから,この歌が出来たようだ.

桑名の殿様は本当の殿様ではなかったが,桑名の殿様を一人挙げるなら,松平定敬(さだあき)を挙げたい.桑名藩最後の殿様である.

定敬は美濃国高須藩松平義建の子で,兄である尾張藩主徳川慶勝,一橋茂栄,会津藩主松平容保(かたもり)と合わせて高須四兄弟と称されている.御三家であるにも関わらず官軍についた慶勝.藩祖の遺訓を守り宗家と命運を共にしようとした容保.兄容保を支えた定敬.

幕末の政局で活躍したこの四兄弟はそれぞれ別の道を歩み,結果的には官軍と賊軍に別れて戦うことになる.いや,官軍・賊軍と呼ぶのは止そう.純粋なまでに藩祖の遺訓を守り続けようとして歴史の敗者になった容保・定敬兄弟を戦に負けたからといって賊軍と呼ぶことはできない.

桑名藩の養子となった定敬は京都所司代として兄容保と共に京の治安維持に努めた.この兄弟は一緒に過ごしたことはないが仲は良かった.幕政の中心にいる一橋慶喜,会津藩,桑名藩を一会桑(いっかいそう)と呼び,もてはやされることもあった.しかし,長州征伐に失敗したあたりから幕府は傾き始める.征長総督が兄の慶勝だったというのも皮肉である.

徳川の将軍であるにも関わらず逃げ続ける慶喜とは対照的に,定敬は江戸屋敷の藩士を率いて江戸,米沢,仙台と戊辰戦争を転戦し最終的には箱館の五稜郭に入る.しかし,既に降伏していた桑名藩家老の酒井孫八郎の説得により単独降伏.明治5年に赦免された後は日光東照宮の宮司などを務め余生を送る.

現在,桑名城跡周辺は九華公園と呼ばれている.城は残っていないが,本丸跡には松平定綱と定信が祀られた鎮国守国神社がある.明治20年,その片隅に天を付くような青銅製剣型の碑が建てられた.戊辰戦争で亡くなった桑名藩士を弔う戊辰殉難招魂碑である.そこには,定敬の銘文が刻まれている.『守節取義各殉其難』の文字には最後まで義を貫き通そうとした定敬の強い思いが感じられる.

東海道から少し離れたところに桑名藩とは敵味方に分かれて戦った薩摩の十字紋を掲げた海蔵寺がある.ここに眠るのは,宝暦治水で命をなくした薩摩藩士である.宝暦3年(1753),薩摩藩は幕府から領国とは無関係の木曽川治水工事を申し付かった.

治水工事には莫大なお金が必要だ.多額の借金を抱えて治水工事をするか幕府と戦うかで薩摩の藩論は二分した.この時,戦いによって罪のない民を失うよりは,例え借金をしたとしても治水工事によって遠国の領民に喜ばれるほうがよいと藩論をまとめたのが,家老の平田靭負(ゆきえ)である.

治水工事の総指揮に当たった靭負は多額の負債を被り,また工事によって多くの人足を失い,その責任を取って治水工事完成後に自刃した.多くの犠牲を払ったが工事の成果は幕臣からも賞賛を受けるほど見事な出来だったという.その100年後に薩摩と桑名は敵味方に分かれて戦うことになる.靭負が幕末時の家老であれば,維新は違う形で迎えたかもしれない.(2005/10/22)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない

 

七里の渡し

歌行燈句碑

通り井跡

桑名城石垣

春日神社・青銅の鳥居

九華公園

戊辰殉難招魂碑

海蔵寺

薩摩義士の墓所


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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