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榎本武揚が見た函館を歩く
『泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず』ペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来港した時に詠まれた狂歌である.上喜撰は高級なお茶だ.カフェインを多く含み,飲みすぎると眠ることができない.上喜撰と蒸気船を掛けて当時の混乱ぶりをうまく揶揄している.

安政元年(1854),圧倒的なアメリカの軍事力を背景に日米和親条約が結ばれ,下田・箱館(明治2年に函館に改名)の二港が開港した.幕府は箱館を直轄地として管理し,奉行所として城郭を建設した.

設計を担当したのは伊予出身の蘭学者・武田斐三郎.諸術調所教授役を任官していた斐三郎は従来の城では大砲などの火力武器からの攻撃を防ぐことはできないと考え,中世ヨーロッパの西洋式土塁を参考にして五稜郭を設計した.箱館五稜郭は約7年の歳月をかけて完成.明治維新まで外交や治安維持など蝦夷地における幕府の本拠地として機能した.

画像認識関係のシンポジウムで発表するために函館に行くことが決まり,『歴史の歩き方』の第一回を函館に決めた.しかし,スポットを当てる人物に迷いがあった.函館といえば五稜郭.五稜郭で思い出す人物といえば,そこに死地を求めた新選組副長の土方歳三か,蝦夷共和国の総裁となりながらも政府軍に投降した榎本武揚か….

歴史小説で歴史を学んだ者として,『燃えよ剣』や『新選組』などの影響もあり,土方を取り上げようという思いが強かった.しかし,学生の頃から入会している電気学会の学会誌を読んでいた時のこと,電気学会の初代会長が榎本武揚だという文章が目に止まった.同姓同名の別人かとも思ったが,よくよく調べてみると本人のようだ.不思議な縁を感じ,第一回目は『函館と榎本武揚』を取り上げたい.

オランダ語,英語,フランス語に堪能だった榎本は幕府の留学生としてオランダへ渡り,国際法や洋式海軍技術を学んだ.この時,モールス印字電信機を日本に持ち帰っており,理系としての資質も窺える.オランダで国際感覚を身につけた榎本は,幕府が注文していた軍艦『開陽丸』に乗って帰国.幕府海軍の軍艦奉行となった.

幕命で留学し,順風満帆に見えた榎本であるが,皮肉なことに榎本がオランダへ行っている間に日本は大きく動いていた.坂本龍馬の尽力によって薩長同盟が成立.幕府の第2次長州征伐は失敗.幕府の威信は地に落ちていた.さらに,将軍家茂は死去し,15代将軍に慶喜が就任.榎本が日本に帰ってきたのは大政奉還のわずか半年前である.

慶喜に大政奉還を行わせた新政府軍は,江戸城の開城と同時に幕府艦の引渡しを要求.榎本はこれを拒否し,独断で江戸湾を脱出した.幕府の海軍は最新式だ.海軍がある限り薩長に敗れることはないと考えていただろう.榎本は薩長軍との戦いを慶喜に進言した.しかし,慶喜は朝廷に恭順し,後事を勝海舟に一任した.鳥羽伏見での大敗に加え,自分の考えを受け入れない慶喜や勝に業を煮やした榎本は箱館を首都とする蝦夷共和国の樹立を目指し,北へ向かう.

この時の榎本の国際感覚と外交力は卓越している.英仏などの列強諸国に蝦夷共和国を日本列島に存在する政権として認めさせることに成功.アメリカに倣って閣僚は投票で選んだ.日本における初めての選挙である.その結果,榎本が総裁,旧幕臣の大鳥圭介が陸軍奉行,土方が陸軍奉行並に任じられた.

しかし,蝦夷共和国も長くは続かない.雪解けを待った新政府軍は明治2年に大軍を擁して五稜郭を猛攻撃.諸外国から最新鋭の銃器を買いつけた新政府軍の圧倒的な軍事力を前に土方が一本木の関門で討死.脱走者が続出した.そして,榎本の降伏によって五稜郭が明け渡され,戊辰戦争は幕を閉じた.

シンポジウムのために行った函館では飛行機の待ち時間などを利用して2日にかけて史跡を歩くことができた.

一日目は,五陵郭公園から土方歳三終焉の地碑を経由し,函館山の麓にある高田屋嘉兵衛の像までを歩いた.五陵郭の星型が見えることを期待して,五陵郭タワーに昇ったが,高さ60メートルのタワーからは歪んだ星型にしか見えない.なんとか奇麗な星型を見ようと,帰りの飛行機からも五陵郭を探したが,結局見られずじまいであった.

このタワーの評判は芳しくなかったのであろう.後日談であるが,2006年に新タワーが開業した.展望台の高さは以前の1.5倍の90メートル.期待してタワーのエレベータに乗り込んだ.以前に比べると遥かに見晴らしはいい.しかし,まだ不満は残る.なんとか綺麗な星型が見たいものである.

タワーを降りる.堀を渡り,城郭内部に入る.当時の箱館奉行所や附属の建物は壊され,札幌の北海道開拓本庁を建設するための木材として利用された.現在の五陵郭には奉行所の玄関と兵糧庫のみが残されている.

その五陵郭から南西へ小一時間ほど歩くと若松町にある土方歳三終焉地碑に着く.土方は新政府軍の手に落ちた箱館の奪回を目指し,一本木の関門から市中に向かう途中で銃弾に倒れたと伝えられている.ここに来るまでに多くの仲間を失い,この地に死を求めた土方.近年の新選組ブームもあってか終焉地碑には多くの人が訪れており,彩り豊かな花がたむけられていた.

そこからまた小一時間ほど歩き,金森倉庫で有名な赤レンガ倉庫群を経由して函館山の麓に着いた.函館は夜景が美しい.ロープウェイで山頂に行こうかとも思ったが,会期中に他の先生方と行く機会があるだろうと思い,高田屋嘉兵衛の像を見て市電でホテルに戻った.付近にかかる横断幕を見ると,近々嘉兵衛祭りがあるようだ.

二日目は,外国人墓地から旧函館区公会堂やペリー提督来航記念碑のある元町公園を経由.ハリストス正教会など幾つかの教会を見ながら,最終目的地である碧血碑へと向かった.元町公園付近には多くの見所が集まり,たくさんの観光客で賑わっている.

函館の街を歩いて何よりも感心したのが,充実した看板や案内図.景観を損ねるなど賛否両論あるだろうが,簡単な地図だけを頼りに歩く私にとっては非常にありがたい.多くの見所がコンパクトに集まっていていることも観光産業が成功している理由であろう.

元町公園の賑わいを過ぎ,坂道の上から海を眺めつつ歩くこと一時間.石川啄木歌碑や旧博物館がある函館公園が見えてくる.この辺りまで来るとほとんど観光客はいない.目的は碧血碑.まだ先だ.函館公園から先は日傘を差した女性とすれ違ったのみで,それ以外は人影を見ることさえなかった.

碧血碑とは箱館戦争で死んだ土方をはじめ約800人の旧幕府軍戦死者の霊を弔う記念碑である.碧血とは『義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる』という中国の故事に由来し,碑石は7回忌にあたる明治8年に榎本や大鳥圭介らの協賛を得て建てられた.碑石の背面には,『明治1・2年にあったこのことを,石を立てることでささやかな気持ちを表す』という意味の漢文が記されている.その表現から賊軍と呼ばれた旧幕府軍の霊を弔うには新政府への配慮が必要であったことが読み取れる.

歴史には勝者もいれば敗者もいる.『勝てば官軍』の言葉通り,歴史は勝者の視点で描かれる.しかし勝者が正義とは限らないし,敗者に非があるとも限らない.様々な視点から正しく歴史を見る目が必要である.

度重なる攻撃に箱館戦争での敗戦が色濃くなった.榎本はオランダ留学時に書き写した『海律全書』が戦によってなくなるのは惜しいと考え,新政府軍参謀の黒田清隆に届けた.黒田は日本の行く末を考えている榎本の行動に感銘.降伏を勧めると同時に西郷らに助命を嘆願した.その結果,降伏した榎本は一命を取り留めた.

榎本は後に逓信大臣を初めとして,外務大臣,文部大臣,農商務大臣を歴任.榎本が新政府の要職についていることに対して福沢諭吉は瘠我慢の説で『元幕臣として道理に合わない』と痛烈に批判.しかし,榎本は過去について多くを語らなかった.

敗軍の将であった榎本にとって,自分個人の弁明は必要なかったのであろう.自分の身について多くを語らなかったため,評価が分かれる人物である.碧血碑に行った後,近くにある谷地頭温泉に寄り,榎本を思い浮かべながら歩いてかいた汗を流した.少し熱かった湯は心と体を温めてくれた. (2004/7/22,26)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない


佐々木 譲 「武揚伝 (一~四)」 中央文庫

自分たちが戦死し,五稜郭が焼けるのはいたしかたのないところだが,焼くには惜しいものがひとつだけあるのだ.海律全書.武揚がオランダで学び,細かに注を書き入れた国際法の研究書である.開陽が沈んだいま,日本人がオランダで学んだことの意味は,いまはもうこの国際法研究書の中にしかない.それは,新しい国家の武器となり,国家を導く指針となるはずのものであった.

 

榎本武揚の写真

武田斐三郎の顕彰碑

五陵郭タワーから見た風景

五陵郭タワー

土方歳三の像

箱館奉行所玄関

クルップ砲とブラッケリー砲

土方歳三終焉の地碑

高田屋嘉兵衛の像と函館山

旧函館区公会堂

ペーリー提督来航記念碑

ハリストス正教会

碧血碑


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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