小学生の頃,社会の授業で地理と歴史が組み合わされていることに大きな疑問を感じていた.なぜ地理と歴史を組み合わせて社会というのか? この組み合わせ方に対する疑問は,中学・高校になっても解決されず,私の社会科離れは加速した.
私の中で地理と歴史が深く結び付いたのはごく最近である.学生時代に地理と歴史を融合させるような本当の意味での『社会科』の授業を受けていれば,社会という科目に興味を持ったかも知れない.地理と歴史の融合,それが『歴史の歩き方』を書き始めた動機の一つでもある.
今を遡ること約100年,明治33年に地理と歴史の融合を目指した教材が作られている.子供の地理教育のために作られた歌で鉄道唱歌という.第一集では新橋を起点に東海道を西へ移動しながら神戸までを歌い,沿線の地理・歴史・伝承・名産などを66節で紹介する.静岡から愛知へ入る30節は次のように歌われる.
豐橋おりて乗る汽車は これぞ豐川稲荷道 東海道にてすぐれたる 海のながめは蒲郡
蒲郡から三河湾を眺めると,広い海の中にぽっかりと浮かんだ島が見える.蒲郡からの眺望に欠かせぬこの島の名前は竹島という.島全体には238種もの暖地性植物が生い茂っているといわれ,国の天然記念物に指定されている.島までは竹島橋が架かり,歩いて渡ることができる.
この竹島に深い縁があるのが藤原俊成だ.平安時代末期から鎌倉時代初期の歌人であり,名字から予想される通り藤原道長の子孫に当たる.俊成は後白河院の勅命で千載和歌集を編集.指導者としても定評があり,小倉百人一首を編集した息子・定家や新古今和歌集の選者の一人である藤原家隆など優秀な歌人を多数輩出している.
俊成は三河の国司に任命された時に蒲郡の竹谷・蒲形地区を開発.琵琶湖の竹生島から竹島に市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を勧請した.その時に作られた八百富神社は開運・安産・縁結びの神様として知られており,江ノ島・竹生島・厳島などと共に日本七弁天に挙げられる.
多くのかもめが飛び交う中,竹島橋を渡った.島に近付くと八百富神社の大鳥居が視界に入る.一周400メートルほどのこの小さな島には,竹島弁天を奉る八百富神社を始めとして5つもの神社があり,島そのものが神社だ.その中の一つ,千歳神社には俊成が祭神として奉られている.
一周30分程度の遊歩道を歩き,竹島側から竹島橋を見ると蒲郡プリンスホテルが見える.政府が指定する国際観光旅館の第1号に指定されたホテルだ.このホテルからの景色には,菊池寛,川端康成,志賀直哉,山本有三,池波正太郎など多くの文豪が魅了された.やはりこの風景に竹島は欠かせない.これらの文豪と竹島の交流の様子は橋のふもとにある海辺の文学記念館で紹介されている.
冒頭で紹介した鉄道唱歌は歴史について歌う31節に続く.
見よや徳川家康の おこりし土地の岡崎を 矢矧の橋に残れるは 藤吉郎のものがたり
そして,5節にわたって愛知を取り上げ,34節で岐阜へと受け継ぐ.
名高き金のしゃちほこは 名古屋の城の光なり 地震の話しまだ消えぬ 岐阜の鵜飼も見てゆかん
明治33年に作られ地理と歴史の融合を目指した鉄道唱歌は,現代から見ても決して色あせるものはない.最近の情報誌のように娯楽一辺倒のテーマパークなどが入っていない分だけ,むしろ新鮮にさえ感じる.
(2005/1/30)
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