『イイクニつくろう鎌倉幕府』誰もが覚えたフレーズであろう.近年になって鎌倉幕府の成立時期については異論が出ている.
源頼朝が侍所を設置した1180年には武士の支配体制が確立している.ある研究者はこの年が幕府成立だという.ある研究者は朝廷から守護・地頭の設置が認められた1185年が開府だと主張する.承久の乱で後鳥羽上皇を破った1221年だといい張る研究者もいる.歴史学的に見ると1192年派は少数だ.
1192年は頼朝が征夷大将軍に任命された年だ.頼朝は優れた政治家であった.父・義朝や平清盛など,これまでに権力をつかもうとしてきた武士が犯してきた本質的な過ちを肌で感じ取っていた.官位と宮中への執着である.
藤原道長は天皇家に近づき外戚となることで摂関家の地位を得た.清盛もこれに倣い天皇家や摂関家に近づき宮中で力をつけた.しかし,頼朝は違った.この方法では武士の時代を築くことができないことを感じていた.それゆえ後白河院から無断で官位を受けた弟義経を許せなかったのであろう.
頼朝は全く新しい武士(もののふ)の世を作ろうとした.積極的に官位を受けることも摂関家に近づくこともなかった.大納言や近衛大将などへの任官を薦められはしたが,ことどとく辞退した.頼朝が求めたのは武家の棟梁を意味する征夷大将軍の地位のみであった.
征夷大将軍は令外官(りょうげのかん)といい,律令制度には規定のない官職だ.いわば肩書きだけだ.他の官位には京にいなければならないなどの制約が多かった.公家と距離を置きたい頼朝にとって官位は足枷になる.征夷大将軍という肩書きのみの官職を利用し,名実ともに力をつけた.
頼朝の頃の鎌倉幕府はいわば私的政治組織だ.頼朝は天皇家や公家に近寄ることなく,新たな武士の国を段階的に築いていった.それゆえ開府の時期には異論が出るのだ.武士を統率する侍所を置き,行政のための公文所を置き,裁判のための問注所を置き,土地を支配するために守護・地頭を置いた.天皇家に対して発言権が増したのは承久の乱の後だ.
頼朝のこの卓越した政治感覚はどこから来ているのであろうか.家康は江戸幕府を開く際に頼朝を徹底的に研究したという.しかし,頼朝には手本にすべき前例がなかった.父・義朝と平家の失敗を身をもって体験した.それが反面教師だ.ただ頼朝には多くの優秀なブレーンがいた.そして,ブレーンの意見を積極的に取り入れた.
頼朝は先祖と縁のある鎌倉を本拠地に選んだ.三方が山,一方が海に囲まれている鎌倉の中心は鶴岡八幡宮だ.八幡宮から南へは京都の朱雀大路を意識して作られた若宮大路が延びている.たくさんの店が軒を連ね,街のメインストリートとして賑わっている.今でも広い通りだが,当時の道幅はもっと広かったという.道の中心には段葛(だんかずら)が盛られ,そこを歩き鶴岡八幡宮へと向かった.
鶴岡八幡宮に入るとすぐに左右に大きな池が見える.頼朝の妻北条政子が掘らせたと伝わる池だ.右は源氏池,左は平家池.源氏池には三つの島が,平家池には四つの島が浮かんでいる.これは源氏の産(三)と平家の死(四)を表しているというが,いかもに後世の作り話っぽい.所狭しと大きな蓮の葉が並んでいた.
頼朝は天皇家とは一線を画したかった.そのためには皇祖神である天照(あまてらす)神とは異なる神の存在が必要であった.将門記によると平将門に新皇の地位を与えたのは八幡大菩薩である.八幡神は天照神とは一線を画する坂東武者の神であった.頼朝は八幡神を源氏の氏神,さらには武神として崇め,王朝秩序からの脱却を目指した.
鶴岡八幡宮の本殿では掲額の文字に注意したい.八幡宮の『八』の字は平和のシンボルである鳩をかたどったものだ.どこかで見た形である.そう,鳩サブレーと同じ形だ.若宮大路で鳩サブレーの店を見かけたことを思い出した.以前から疑問だったのだが,鳩サブレーが鎌倉土産であることに妙に納得した.
八幡宮からは頼朝の墓を目指した.道路標識が多いので迷うことはない.グラウンドでサッカーの練習をしている子供たちを横目に歩く.白旗明神にたどり着き,そこから石段を上る.段数はさほど多くない.石段の先に頼朝の墓が立つ.武家の棟梁のものとは思えないほど平凡な墓だ.この周辺には頼朝屋敷があったと伝わっているが,今ではその跡形を偲ぶことはできない.
頼朝の墓の右手には道の悪い足場が上へと続く.ロープ伝いに上がるとそこには三基の墓が並んでいた.鎌倉の土質は石灰岩を多く含んでいるのであろうか.この辺りの岩石は少々白っぽい.その岩石をくりぬき,三基の墓が並んでいる.こちらの墓の方が頼朝の墓よりも立派にみえる.
左から毛利季光(すえみつ),大江広元,島津忠久の墓である.因縁な組み合わせだ.中央の大江広元は頼朝のブレーンの一人,侍所の初代別当だ.守護・地頭を設置したのも征夷大将軍の地位を受けるように進言したのも広元だ.頼朝の墓よりも高いところにあるのが気にはなるが,広元が頼朝の墓を見守っているのは分かる.問題はその両脇だ.
左端の季光は長州藩の祖,右端の忠久は薩摩藩の祖である.後に徳川幕府を倒す原動力となる長州藩と薩摩藩の祖となる人物だ.両名の墓が頼朝の墓を見下ろすように並んで立っている.武士の世を終結させた先祖の墓と武士の世を作った者の墓.それらが近くに立っている.歴史の悪戯を感じた.
ちなみに毛利季光は広元の四男だ.中国の毛利家は広元の血を引いている.また,島津の祖である忠久は頼朝から日向の地頭に任じられた.現在ある頼朝の墓は安永年間(1772~81)に薩摩藩によって修復されたという.その縁でこの場所に島津藩祖の墓を作ったのであろうか.
頼朝の墓からは,妻政子や息子実朝の墓がある寿福金剛禅寺に寄った後,道に迷いつつも源氏山公園を抜けて化粧坂の切り通しへと向かった.鎌倉は天然の要害である.鎌倉への往来を円滑にするためには道の整備が必要であった.それが切り通しである.
代表的な七つを鎌倉七口と呼ぶ.中でも頼朝の時代にいち早く整備されたのが化粧坂の切り通しだ.しかし,移動に便利な道は攻め込まれる危険性も高い.そこで,切り通しは道を曲げたり坂にしたり,大きな石を置いたりしてわざと通りにくくしている.
現在の機能性の高い運動靴を履いていても歩くのは大変だ.当時のわらじならさぞかし難航したことだろう.馬の往来もままならないに違いない.その証拠に頼朝の時代から250年後,極楽寺坂の切り通しは新田義貞の鎌倉入りを阻止した.切り通しからからの鎌倉入りを断念した義貞は稲村ヶ崎へと迂回せざるを得なかった.
鎌倉を歩いていると多くの石碑が目に付く.鶴岡八幡宮横の畠山重忠邸址をはじめ,大蔵幕府,問注所址など八十余箇所にのぼる.これらの石碑は大正から昭和初期にかけて建てられたものだ.歴史区分では,安土桃山と江戸をあわせて近世,平安後期(平氏政権の成立)から戦国までを中世と呼ぶ.色々な街を散策していると感じることだが,近世の遺構が残る街は多いが,中世の遺構を感じ取れる街は少ない.
鎌倉は中世の遺構を感じることができる数少ない街だ.しかし,やはりそのほとんどは近世に手が加えられたものだ.江戸時代初期には既に鎌倉は荒れていた.鎌倉幕府の滅亡から300年も経つのだから当たり前だ.鎌倉の街を保存しようとしたのは水戸黄門の名で知られる徳川光圀である.
光圀は鎌倉を巡覧し『鎌倉日記』を記した.また,鎌倉に残る遺構を調べさせ旧跡の記録を残した.『新編鎌倉志』の編纂だ.現在に残る鎌倉の記録はこの書物によるところが大きい.この書物をもとに鎌倉の街は復興した.
鎌倉は江戸の古都だ.江戸時代に多くの観光客が鎌倉見物へとでかけた.そして荒れ果てていた鎌倉が徐々に復興していった.いま鎌倉で感じる歴史は近世に作られた中世の歴史だ.歴史を次の世代へと残すことは難しい.大規模な開発が進む中,1000年・2000年後に我々は何を残せるのであろうか.銭洗い弁財天と佐助稲荷神社を回りながらそんなことを考えていた.
この銭洗い弁財天と佐助稲荷神社は繁盛の神と出世の神.共に宇賀福神を奉っている.しかし,参拝者の数は対照的である.銭洗い弁財天で銭を洗うと金持ちになれると言い伝えられている.文字通り芋を洗うように群がってお金を洗っていた.一方,佐助稲荷神社は閑散としていた.頼朝の官名『佐殿(すけどの)』を助けたことから名がついたといわれる佐助神社.片参りにならないよう両方を参りたい.
頼朝の死因は謎である.落馬が原因とも溺死とも伝えられている.建久9年(1198)のことである.頼朝の死後,将軍家を継いだ息子頼家は北条氏によって伊豆に流され暗殺.三代将軍を継いだ頼家の弟実朝は頼家の子公暁(くぎょう)によって暗殺される.場所は鶴岡八幡宮.公暁は石段の大銀杏に隠れていたという.その公暁もまた北条氏によって討伐.血縁通しの討ち合いによって頼朝の血統は途絶えた.
梶原景時,比企能員,畠山重忠,和田義盛,開府以来の頼朝のブレーンも次々と北条氏の手にかかる.北条氏は執権として鎌倉幕府の実権を握るのだ.高度な政治力によって武士の世を作った頼朝も自分の死後の内部分裂までは予想できなかっただろう.
(2006/9/24)
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