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斎藤道三が見た金華山を歩く
愛知から岐阜の県境に近付くと,ちょうどお椀をひっくり返したような山が視界に入ってくる.山の高さは329メートル.とりわけ高い訳ではないが,濃尾平野の中で一極目立つこの山は,金華山と呼ばれ山頂には岐阜城がそびえ立つ.

近くには鵜飼で有名な長良川が流れており,たくさんの観覧船が夕方からはじまる鵜飼に向けて準備をしている.鵜飼は1300年続く伝統行事だ.今も見られる山・川・城・舟は戦国時代から変わらぬ景色なのだろう.

戦国の頃,岐阜城は稲葉山城と呼ばれていた.蝮と恐れられ下克上の代名詞ともいえる斎藤道三は交通の要所として美濃に目をつけ,土岐頼芸を守護にかついで美濃国の実権を掌握.稲葉山城を整備し,楽市楽座の制度を設けることで城下町を繁栄させることに成功した.

この稲葉山城.歴史は意外に古く,建仁元年(1201)に鎌倉幕府の執事であった二階堂行政が金華山の山頂に砦を築いたのが始まりだとされている.天然の要害ともいえるこの城は,稲葉光資や斎藤利永らを経た後,道三に引き継がれた.

城を手に入れた道三は不必要になった土岐頼芸を追放.自らは隠退して家督を嫡男の義龍に譲るが,父子の確執から戦いへと発展.長良川の合戦で討ち死にする.「虎を兎と見誤った」と道三にいわしめた義龍は領国の経営に力を注ぎ,度重なる信長の美濃侵攻をことごとく撃退.しかし,不運にも道三の死後わずか5年で病死する.

父の死によって後を継いだ龍興は,この時14歳.すぐさま,信長は安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全の美濃三人衆らを懐柔.稲葉山城を攻略した.こうして,道三の野望は娘婿である信長へと受け継がれた.

稲葉山城を攻略した信長は天下布武を目指し,『周の文王,岐山に起って天下を望む』という中国の故事に従って稲葉山城を岐阜城に改名.道三によって行われた楽市楽座を踏襲し,城下町のさらなる発展と領土の拡大に力を注いだ.

信長の入城2年後に岐阜城を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが「人口は八千ないし一万人,バビロンのような混雑だ」と書き記すほどの繁栄を見せた岐阜城は,安土城が建設されるまでの10年ほどの間天下統一の拠点となった.

しかし,岐阜城の繁栄も長くは続かない.信長が安土へと移った後は,嫡男の信忠が後を継ぐが,本能寺の変によって主を失う.後に信長の孫である信秀が入城するが,関ヶ原の合戦を前に西軍に味方し,わずか一日で落城.天然の要害を恐れた家康の命で翌年廃城の運命となる.

後年,庄屋の松橋喜三郎宅に招かれて岐阜を訪れた松尾芭蕉は,信長の城下町の頃の井戸が古くなっているのを見て,岐阜城のかつての繁栄を偲ぶ句を詠んだ.

城跡や 古井の清水 先とはむ

この句は,岐阜公園内の三重の塔近くにある句碑に記されている.現在,信長らによって保護された鵜飼を見るために多くの観光客がこの地を訪れ,金華山ロープウェーで岐阜城の天守閣に登ると長良川を始め肥沃な土地を一望することができる.

金華山の麓にある信長居館跡付近は当時の石塁などの遺構がよく保存されており,岐阜公園として整備されている.築城から800年,廃城から400年を経た今,芭蕉が再びこの地を訪れればどのような句を詠むだろう? (2004/9/25)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない


司馬 遼太郎 「国盗り物語(一~四)」 新潮文庫

「おれは美濃を織田信長にゆずろうとおもうのさ.美濃を制するものは天下を制する,とおれは思っている.あの男にこの国を進呈し,おれの築いた稲葉山城のぬしに,あの城を足場に天下に兵を出し,ついには京へのぼって覇者とならしめる.おれが夢みてついに果さなかったものを,あの男にさせようというわけだ.あの男ならきっとやるだろう」

 

斎藤道三を描いた掛軸

金華山と岐阜城

金華山ロープウェー

岐阜城

岐阜城天守閣からの景色

長良川の鵜飼


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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