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土方歳三が見た池田屋を歩く
京都にある新選組壬生の屯所から池田屋までを歩きたい.出発地と最終地は明確に決まっていた.電車や車のない時代,移動の手段は専ら足である.屯所から池田屋までの距離はどれくらいあるのだろう?それを実感したかった.

元治元年(1864),近藤勇率いる新選組は,池田屋を襲撃.長州藩の尊皇攘夷過激派を血祭りにあげた.いわゆる池田屋騒動である.この事件をきっかけに新選組の名は一気に天下に轟いた.

事の発端は八月十八日の政変である.会津藩と薩摩藩は宮中でクーデターを起こし,長州藩を政治の中枢から失脚させた.朝廷では公武合体論が主流になり,長州藩の唱える尊皇攘夷派は影を潜めた.長州藩は表立った活動ができなくなった.

しかし,裏での地下活動は一層過激になった.京都では度々過激浪士集団の会合が持たれ,白昼堂々の暗殺が横行した.こんな折,京都の治安維持を一手に任されたのが会津藩お預かりの新選組である.

この頃の新選組の勢力は大きくない.壬生浪士組から新選組に改名.発足当時は三人いた局長も,切腹と暗殺によって一人になり,近藤勇が局長,山南敬助と土方歳三が副長としての新体制がスタートしたばかりであった.

ちなみに,局長の一人であった新見錦を切腹させたのは近藤や土方である.また,筆頭局長であった芹沢鴨を暗殺したのも近藤らである.暗殺の場所は壬生にあった新選組屯所.粗野ではあるが腕の立つ芹沢を暗殺するために近藤らは芹沢に次々と酒を勧め泥酔させた.そして,寝込みを襲った.

屯所を訪れると,この暗殺の時についたといわれる刀傷が建物の鴨居に残る.泥酔した芹沢が刀を抜こうとした時に,蹴つまずいたといわれる文机が置かれている.この地で隊士が寝泊りした.この地で暗殺が行われたのだ.今の様子からは想像できないが,壁には長い間血痕が残っていたという.

こうして,近藤と土方による新体制がスタートした.池田屋騒動に話を戻そう.新選組の地位を向上させるためには,京都の治安回復が一番だ.新選組は多くの密偵を各所に送り込み,不審者の探索を行った.

ある日のこと,一人の不審人物が浮上した.四条小橋上ル真町で筑前藩御用達商人を営む桝屋喜右衛門だ.多くの銃を隠し持っていることも突き止めた.新選組は直ちに襲撃.武器だけではなく,長州藩との書簡のやり取りも発覚し,店主を連行した.

男の名前は,古高俊太郎.枡屋は仮の姿である.しかし,本名以外は白状しない.事の真相を突き止めるため,古高への拷問は凄惨を極めた.この拷問を行ったのは,副長の土方である.土方は古高を土蔵に逆さに吊るし上げ,足の裏に釘を打ったといわれている.他の隊士の出入りは禁じられ.悲鳴だけが中から聞こえた.この土蔵,屯所近くの前川邸に現存しているが,今は個人の所有であり,非公開となっている.

激しい拷問の末,古高から聞きだした計画は驚愕すべきものであった.

風の強い日に京都御所を放火,混乱に乗じて八月十八日の政変の首謀者である中川宮や松平容保らを暗殺.さらに,御所から避難する孝明天皇を奪い,長州に連行する.というのだ.

これが事実だとすると大変なことだ.さらなる探索によって長州藩を中心とする過激派が計画を中止するか実行するかを協議するという情報を得た.古高の捕縛によって過激派内の意見も分裂しているようだ.

新選組は直ちに会津藩に応援を要請.しかし,実戦経験のない彼らの動きは鈍い.情報によると,会合が開かれるのは池田屋か四国屋だ.近藤は新選組だけの単独行動を決断.隊を二手に分けた.

近藤が10名を率い,土方が24名を率いた.土方は長州藩が頻繁に出入りしている四国屋を探索.しかし,怪しい者は発見できなかった.近藤が率いているのは手練れが多いとはいえ僅か10名.池田屋に多くの過激派が集まっていたら近藤らの身が危ない.土方は急いだに違いない.池田屋へ…

我々の目的地も池田屋だ.隊士の兵法訓練場となった壬生寺に足を向け,近藤や芹沢らが祀られている壬生塚に寄った後,壬生の名水と呼ばれる鶴寿井の水を一気に飲み干し,池田屋を目指した.

新選組はどのような経路を歩いたのか?我々は急ぎではない.人通りが多く楽しそうな道を選んだ.

最初に寄ったのは光縁寺.瓦に刻まれている丸に右離れ三つ葉立葵の紋は山南と同じ家紋.屯所で切腹した多くの隊士が弔われ,境内には山南や沖田家縁者の墓が並んでいる.この山南,副長から総長の地位に上るも,隊の規則を破った罪で切腹.切腹の命は土方によって出された.鬼の副長といわれる所以である.

さて,歩く上で外せないのは錦市場.京の台所だ.売っている物を眺めているだけでも楽しい.歩いていると喉が渇く.途中で貝をつまみにビールで一杯,休憩しながら歩いた.江戸期には,すでに市場が開かれていたというが,新選組は人の少ない道を歩いただろう.

池田屋の少し北には,信長が最期を遂げた本能寺がある.秀吉の都市計画によって移転させられたので当時の場所ではないが,信長の三男・信孝による供養塔が立つ.我々は寄り道をしながら,のんびり歩いたが,土方らは急いだであろう.近藤らの身が危ない.

この頃,近藤らは危機にさらされていた.「御用改めである」と近藤の一声で入った池田屋には過激浪士が集結していた.沖田総司,永倉新八,藤堂平助が近藤の後に続いた.実戦経験が豊富な四人の活躍はすさまじく,飛び掛ってくる浪士,逃げようとする浪士を次々に討ち取った.しかし犠牲も大きい.しばらくすると,沖田は喀血.藤堂は眉間に大きな傷を受け戦線離脱.永倉も左手に傷を負い,使っていた刀が折れ,万事休すと思ったその時に土方らが到着した.

このときの土方の行動は冷静そのものである.すぐに池田屋の周りを新選組で固め,後から駆けつけた会津・桑名両藩の兵を近寄せさせず,すべてが新選組の手柄となるように指揮した.

この戦いで,吉田松陰の甥である吉田稔麿や宮部鼎蔵などの実力者が戦死.明治維新が一年遅れたと噂された.現在,この地には碑が立つのみで跡地にはパチンコ屋が建つ.残念ながら往年の姿は偲ばれない.しかし,三条大橋を渡るときには,西側から2つ目の南北擬宝珠に注目して欲しい.池田屋騒動の時についたのではないかといわれている刀傷が残っている.

池田屋騒動を機に一躍歴史の表舞台に出てきた新選組であるが,その栄光も長くは続かない.絶頂期も束の間,大政奉還から後は敗戦に敗戦を重ね,京から江戸,会津そして蝦夷へ.北へ北へと落ち延びていく運命にあった.土方は自分の最期の地が函館であるとは夢にも思っていなかったであろう.

まだ身分制度の厳しいこの時代.土方は百姓に生まれながらも新選組を幕府最強の戦う軍団に仕立て上げ,最後の最後まで新政府軍に抵抗した.この生き様に悔いはないであろう.隊の組み立て方,そして散り方までもが見事であった.(2006/5/28)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない


司馬 遼太郎 「燃えよ剣 (上・下)」 新潮社

-場所は池田屋,日は今夜.とわかったのは,六月五日である.それも夕刻になってから,山崎の諜報がとどいた.ところがおなじころ,町奉行所に依頼してあった密偵から,「今夜,木屋町の料亭丹虎(四国屋重兵衛)らしい」とも,いってきた.丹虎は,従来,長州,土州の連中の使っている料亭で,池田屋よりははるかに可能性が濃かった.近藤もこの報告には青ざめた.わずかな兵力を二分させることになるのだ.

 

新選組壬生屯所遺蹟(八木邸)

鴨居に残る刀傷

壬生寺

壬生塚

旧前川邸

光縁寺

錦市場

本能寺

信長公廟

池田屋騒動址

三条大橋擬宝珠刀傷跡


今回歩いたコース(誤りがありましたらご指摘いただけますと助かります)

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