補佐役の名に相応しい男.秀吉の弟の存在を知ったのは堺屋太一の小説『豊臣秀長』を読んだ時,高校生の時である.その頃は秀吉に弟がいることを知らなかった.タイトルの誤植かと我が目を疑ったのを覚えている.
秀長の名は表舞台にはあまり出てこない.しかし,武将からの人望は厚く,人徳家.文武両面に秀でていた.もう少し長生きしていれば,徳川の世は来なかったのではないかと思わせるほどの人物だ.秀吉の天下取りのための裏方に徹した.名補佐役である.
秀長は秀吉の異父弟だという説が一般的だ.武士を目指していた秀吉とは違い,秀長は秀吉に乞われて織田家に仕官した.武士の出身ではない秀吉には信頼できる家来がいない.血のつながりのある秀長に助勢を求めた.その時,秀長は悩んだという.
武士としてやっていけるか…
その悩みとは裏腹に武士になると決断した秀長の活躍は目覚しい.黒俣築城攻防戦,小谷城攻め,長島攻めや石山本願寺攻めなど各地を転戦する.秀吉の影には必ず秀長がいた.中国攻めにも付き従い,本能寺の変の後は山崎の戦いで明智光秀を破り,紀伊・四国・九州征伐には時として総大将として参加した.
九州征伐の後は,豊臣政権の中で千利休とともに活躍.『内々の儀は宗易(利休),公事の儀は宰相(秀長)存じ候』と手紙に書き記すほどであった.この秀長に与えられた地が大和郡山.大和,和泉,紀伊三国の大守となり,その知行高は百万石に迫る勢いであった.従二位権大納言に叙せられてからは庶民からも大和大納言と呼ばれ親しまれた.
しかし,郡山に入国して4年後の天正17年(1589)に発病.その2年後に大和郡山城内で没した.享年52歳.葬式は大徳寺古渓和尚によって執り行われた.20万人もの見物人が集まり,野も山も崩れんばかりの人だかりができたと伝えられている.
秀長の菩提寺は春岳院にある.駅からも近い.近鉄郡山の駅を降り,遊廓が賑わっていたという古い建物が残る洞泉寺付近を散策した後,春岳院へと向かった.
途中,『秀長の菩提寺春岳院』という看板が掲げられている.道に迷うことはない.門の前に立つ.門は閉ざされていた.話しを聞かせてもらおうと思い,チャイムを押すが,人の気配はない.突然の押しかけであるから仕方がない.二度目のチャイムを鳴らし,あきらめて春岳院を後にした.
郡山の町はこじんまりとまとまっていて散策しやすい.途中の箱本館紺屋付近には古い町並みが残る.秀長は城下町の発展のために箱本という自治制度を実施した.13の町で朱印箱を1ヶ月交替で持ち回り,箱を持っている町の年寄が治安や消火,伝馬など町全体の責任を負う制度だ.箱本館紺屋には朱印箱や古文書が展示されている.
箱本館紺屋を過ぎ,しばらく歩くと郡山城が視界に入る.郡山城には大納言の居城に相応しい五層八階の天守閣があったと伝えられているが,現存するのは石垣のみである.秀長はこの城を改築するときに奈良の各地から石を集めた.あまりの急ピッチで作業を進めたために石が不足.庶民にも石の提供を命じ,あちこちで石の取り合い騒動が起きた.
天守石垣の北側に位置する逆さ地蔵が印象的だ.地蔵までが石垣に組み込まれたのだ.逆さに積まれた地蔵は天守を支えている.地蔵だけではなく,寺の庭石や伽藍礎石・平城京羅生門の礎石までが転用されたという.
現存するのは石垣のみであるが,二つの櫓と追手門(梅林門)が復元されている.復元ではあるがいい雰囲気を醸し出している.
梅林門をくぐると,見ごたえのある力強い建築物が視界に入る.大和郡山市民会館である.明治41年に興福寺境内に奈良県最初の図書館として建てられ,昭和になってこの地に移された.明治建築の粋を集めたこの建物の風格は,周りを圧倒している.
その他,城内には柳沢文庫と柳沢神社が建つ.郡山は柳沢吉保とも縁があるのだ.吉保は徳川5代将軍綱吉の側用人として権力を振るった.綱吉の死後,吉保は隠居.子の柳沢吉里は甲府から大和郡山へと移封された.
郡山へ移封のとき,家臣が金魚を持ち込んだ.それ以来,金魚の飼育は武士の内職として栄えた.明治期には職を失った武士が集団養殖を始めた.今でも,郡山は日本最大の金魚の産地であり,全国の60%の金魚を生産している.そして,夏の風物詩として全国金魚すくい選手権大会が開催されている.
駅へ向かう途中には永慶寺がある.永慶寺は甲府にあった柳沢家の菩提寺で,移封に伴ってこの地に移築された.この寺の山門は,秀長の時代の郡山城の南御門であったという.
駅にたどり着く前の最後の寄り道は大納言塚.秀長の墓所である.秀長はここに眠っている.秀長の死後,温和な秀長が生きていれば,避けられたと思われる事件が縦続けに起きている.利休の切腹,朝鮮出兵,秀次の切腹.
秀長は病床にありながら最後まで朝鮮への出兵を反対した.しかし,秀長の死から2ヵ月後,秀吉は朝鮮出兵を決断.秀長を失い,秀吉の暴走を止めることができなくなった.この後,豊臣政権は奈落の底へと転がり始める.
主役と補佐役.それらがうまく噛み合った時に,一番大きな力を発揮する.主役だけではうまくいかない.
(2006/1/29)
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堺屋 太一「豊臣秀長 ある補佐役の生涯(上・下)」文藝春秋
補佐役−それは,参謀ではない.専門家でもない.もちろん,一部局の長,つまり中間管理者でもない.そしてまた,次のナンバー1でもない.「この人」は,豊臣家という軍事・政治集団の中でナンバー2の地位にあった.それは,秀吉がまだ木下藤吉郎とすら名乗っていなかった頃から,関白太政大臣として天下に号令するようになるまで変らない.「この人」からナンバー2の地位を奪えたのは,「この人」自身の病死だけである.
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