時代が移り変わる時には新体制への不平・不満が生じる.そして,勝者同士の争いが始まる.鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇と足利尊氏は対立.この勝者である尊氏は室町幕府を開くが,行動を共にしてきた弟直義(ただよし)と観応の擾乱で戦うことになる.
江戸から明治に変わった時も例外ではない.明治7年には江藤新平による佐賀の乱.2年後には太田黒伴雄(おおたぐろともお)による神風連の乱,宮崎車之助による秋月の乱,前原一誠による萩の乱が続き,翌年には西郷隆盛による西南戦争が起きた.
一連の反乱は乱と呼ぶが,西南戦争だけは戦争と呼称する.西南の役ともいう.乱と呼ぶには規模が大き過ぎる.官軍の死者6922名,戦傷者9252名,西郷軍の戦死者約5千名,戦傷者約1万名.両軍の死傷者を合わせると3万数千名にものぼる.
西南戦争のきっかけは明治6年の政変である.江戸幕府を倒した薩摩藩は新体制を築いていく中で分裂.西郷が唱える征韓論は大久保利通らに受け入れられず,明治6年に西郷は陸軍大将兼参議・近衛都督を辞して下野した.桐野利秋・篠原国幹(くにもと)の両陸軍少将など薩摩藩出身の軍人や政治家・官僚の多くが西郷の後を追って鹿児島へ帰郷した.
翌年,桐野や篠原らは私学校を開設.薩摩藩の軍事力を背景とする私学校党は反政府感情が高く,血気盛ん.西郷を担ぎあげて爆発した.これが西南戦争である.挙兵のきっかけは,政府の西郷視察計画を西郷刺殺計画と誤解したことだともいわれている.
桐野が総司令兼四番大隊指揮長,篠原が副司令格の一番大隊指揮長に就いた.私学校党だけではなく全国各地の不平士族が西郷の旗印に集結.進軍するにつれて数が増えた.この頃の九州の軍事拠点は,熊本城に設置された熊本鎮台である.一路そこを目指した.
西郷軍の兵力は熊本鎮台のおよそ三倍.しかも鎮台の兵の多くは,徴兵令による実戦経験のない農民兵である.篠原らは,すぐに熊本城を落せると考えていたようだ.
しかし,攻める先は難攻不落の名城,熊本城.熊本鎮台司令長官の谷干城(たにたてき)は籠城した.本丸は焼失するものの,西郷軍に渡すことなく攻撃から守り切った.
西南戦争の死傷者数については先にも書いた.このうちの三分の一の被害を出すほどの激戦地になったのが田原坂(たばるざか)である.ではなぜ,この地が激戦地になったのか.
それを説明するためにはさらに270年ほど時代をさかのぼらなればならない.時は江戸幕府が開かれたばかりの頃である.熊本の領主であった加藤清正は山を削って北から熊本へ入るための道を作った.土木の天才である清正は,この道を北の防衛地点に位置付け,道を深く堀り下げ曲がりくねったものにした.そして,道の両端には土手を積み上げた.
これが田原坂である.
西郷軍が,熊本城を攻めあぐねている間に,官軍は大砲や荷馬車を増援.しかし,熊本に入るためには,田原坂を通らなければならない.明治になっても田原坂は熊本に大砲や荷馬車を持ち込むための唯一の道であった.官軍の増援が熊本鎮台に合流すると西郷軍に勝ち目はない.熊本城包囲の兵を割いて,田原坂の守りに備えた.
田原坂方面を担当したのが篠原である.篠原は豪傑猛者にして冷静沈着.鹿児島士族はもとより西郷にも慕われていた.西郷がまだ近衛都督だった頃,明治天皇を前に近衛兵による天覧演習が行われた.降りしきる大雨の中,篠原は獅子奮迅.明治天皇は篠原の指揮ぶりに感心し,篠原に見習うようにと,その地を習志野原と名付けた.現在の習志野である.
この篠原が担当した田原坂は一の坂,二の坂,三の坂と呼ばれる坂が続く.決して急ではないが,鬱蒼とした中をなだらかな坂道が続く.清正が考えた通り田原坂を守るのは容易だ.曲り角に隠れて銃を撃ち続ければいい.官軍は田原坂を越えるのに多大な犠牲を払った.
一日に数十万発もの銃弾が使われたという.日清戦争に使われた銃弾数に匹敵する数だ.激戦の様子を物語るものが田原坂資料館に展示されている.行き違い弾(かちあいだま)と呼ぶものだ.両軍が撃った弾丸同士が正面衝突して,お互いにめり込み合っている.小さな弾丸同士が衝突するほど銃撃が激しかった.これが多数展示されている.
雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂
右手(めて)に血刀(ちがたな) 左手(ゆんで)に手綱 馬上ゆたかな美少年
民謡は唱う.西郷軍は木綿かすりにわらじ姿.雨は体力を消耗させた.しかも,西郷軍が手にする旧式の銃は雨に濡れると不発になる.西郷軍と官軍の決定的な違いは装備である.鎖国から開けた日本は急速に兵器の近代化を進めた.官軍は軍服に靴,そして最新の銃を備えている.しかも,この頃には電信が使われており,戦況は即座に京都の大本営へと伝えられた.武士の魂で勝てる時代ではなくなっていた.
官軍は田原坂と共に吉次峠からも西郷軍を攻撃.篠原は赤裏の外套に銀装刀を装い,陣頭に立って部隊を指揮した.目立つ格好をしていたのは吉次峠に死地を求めていたのかもしれない.篠原を見知っていた官軍の江田国通は部下に命じて篠原を狙撃.弾は篠原に命中した.皮肉なことに江田も篠原と同じ薩摩藩出身,そして江田もまた西南戦争で命を落とす運命にある.
田原坂の陥落後も宮崎・鹿児島と場所を変えつつ6ヶ月も戦い続けた西南戦争.武士の時代の終焉と共に,日本が軍国へ進む予兆でもあった.この戦争で経験を積んだ軍部は,日清・日露・太平洋戦争へと突き進む.日本はこの先70年ほど迷走を続ける.
(2005/12/18)
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