鎌倉には武士の都があった.華やかな公家がいた京の都に対して鎌倉は質素である.衣食住をはじめとする生活はもちろんのこと,文化においても同様だ.鎌倉時代の初期,頼朝,頼家,実朝の源氏三代の頃は京文化を模倣した.しかし北条氏の安定期,時頼そして息子・時宗の時代には禅宗を基盤とした武士の文化が花開いた.その中心が北鎌倉である.
年の瀬迫る12月23日.朝から小雨.そして一人.夕方まで鎌倉で時間を潰さなくてはならない.まだ紅葉が残っているかもしれない.そう思いながら鎌倉駅から北へ足を向けた.
若宮大路の一本東の道を歩く.大蔵から幕府が移された宇津宮辻子の跡地を通る.ここに幕府を移したのは三代執権・北条泰時だ.泰時はすぐれた政治家だった.血なまぐさい騒動が続いたこの時代.源氏が滅びた後も北条氏が執権として政務を執り続けることができたのは泰時によるところが大きい.
頼朝の妻であり,北条氏のよりどころであった政子の死後,北条氏にはこれからも執権として政務を司るだけの威厳はなかった.泰時は評定衆の制度を設け,政務や裁断に13人の合議制を取り入れた.執権の自分は目立たぬように,そして公平な政治を目指すように見せかけた.
しかしその裏では公家から招いた将軍を傀儡化し,北条氏に権力が集中する体制を構想した.このころになると北条氏も肥大化している.同族での討ち合いもあった.泰時は北条氏の嫡系を『得宗(とくそう)』と呼び,他の北条氏とは区別した.そして得宗家に権力が集中するような基盤を作り上げた.
さて,宇津宮辻子の先には若宮大路幕府跡が続く.そこから鶴岡八幡宮を抜けて巨福路坂(こぶくろざか)を上って北鎌倉を目指す.今の巨福路坂は明治に作られた新道だ.道は広く,交通量は多い.旧道は通行不能だという.どうせ急ぎではない.旧道の行けるところまで歩くことにした.途中,青梅聖天と道祖神の碑がある.さらに進むと道は細くなり,ついに砂利道になった.朽ちかけた家を横目に進んだが結局は行き止まり.たまにはこういう寄り道もいい.眼下の新道へ引き返すことにした.
巨福路坂の頂上付近には円応寺が建つ.祭壇の中央には閻魔大王が鎮座している.閻魔大王は亡者の次の世界を決める役目を負っている.次の世界とは天上,人間,修羅,畜生,餓鬼,地獄の六道だ.人間界よりも良い世界が一つ,悪い世界が四つ.人間の本性は悪だということか.裁く者も裁かれる者と同様に苦しい.苦しみが鬼の形相に現れている.薄暗い堂内には静かな気配が立ち込めていた.
北条氏は南宋の五山十刹制度に倣い鎌倉五山を選定した.その第一位が建長寺である.開基は五代執権・時頼.泰時の孫に当たる.己に厳しい執権だった.宋から伝わった質素な禅宗を好み,建長寺開山のために宋の高僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いた.伽藍配置は中国式で,総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線上に並ぶ.
美しく力強い三門をくぐり先へと進む.法堂の天井には雲龍図.これは創建750年を記念して書かれたもので新しい.その先,方丈の庭園は夢窓疎石(むそうそせき)の作といわれている.さらに奥へ進むと山の中腹にはたくさんの怪しげな天狗の像.半僧坊だ.脇には富士見台と書かれた立て看板.ちょうどこの頃には青空が見え始め,冴え渡る冬の視界の先には頂に雲を冠する富士山の輪郭がくっきりと浮かび上がっていた.
次に訪れたのは明月院.時頼が執権を譲った後に出家生活を送った場所だ.院内には時頼の墓が建っている.時頼の死後,時宗はここを改名し禅興寺を興した.時頼の信任厚かった道隆に開山を依頼した.現在は明月院だけが残り,あじさい寺として知られている.シーズンにはあじさいが咲き乱れて混雑するらしいが,この時期はいくばかりかの蝋梅と寒椿が咲いているだけであった.
鎌倉の幾つかの寺の開山に立ち会った道隆.道隆の禅風は宋の純粋禅を受け継いだものだ.当時の宋は先進国である.北条氏は進んで宋の文化を受け入れようとした.しかし,その宋も滅びようとしていた.
この頃の中国大陸について少し説明しておこう.モンゴルではチンギス・ハンが元を興し,ロシアから東欧・中国にまたがる一大帝国を作り上げようとしていた.南宋は元の圧迫を受けていた.戦乱を逃れて日本に亡命する高僧もいた.鎌倉ではこれらの高僧を手厚く迎え,中国大陸の状況を事細かに調査していた.
元を興したモンゴルは騎馬民族である.戦では略奪を繰り返し土地には価値を見出さない.漢民族からは文化を持たない野蛮民族として蔑まれた.しかしチンギス・ハンの孫・フビライは違った.略奪するよりも属国にする方が収益が上がると考えた.フビライは南宋を滅ぼし朝鮮半島の高麗を属国とした.そして次の一手が日本に向けられようとしていた.
この不安は日本にも広がりつつあった.日蓮は立正安国論の中で『他国侵逼難(たこくしんぴつなん)』を予言した.近く外敵が侵入する.これを防ぐには法華経を信じなければならない.日蓮は説いた.幕府は世相を惑わす咎で日蓮を捕縛.伊豆へ配流した.しかし日蓮の予言は的中.『他国侵逼難』が日本を襲った.
蒙古襲来である.予兆はあった.フビライは日本に属国になるように何度も使者を送った.しかし,執権時宗はこれを無視.使者の首を刎ねた.今も昔も変わらないが,島国の日本は外敵の脅威にさらされることがないためか外交下手である.国書に対して返答をよこさない日本にフビライは痺れを切らした.
対馬と壱岐はすぐに元軍の手に落ちた.日本と元の戦法は大きく異なる.「やあやあ我こそは」と家柄を名乗り一騎打ちを挑む鎌倉武士.対する元は集団戦法だ.太鼓や銅鑼(どら)を打ち鳴らし一斉に攻め寄せる.多くの者が名乗りの最中に討たれた.極めつけは鉄砲(てつはう)だ.鉄筒に入れた火薬を飛ばして爆発させる.轟音に驚いた馬はいうことを聞かなかった.
対馬・壱岐を攻略した元は博多に上陸.ここでも多くの武士が死んだ.元の大勝だった.が,なぜかこの日元軍は船に引き揚げた.知らぬ土地での夜に不安を覚えたのだろうか.その晩,大嵐が吹き荒れ,元の船は大破.玄界灘の藻屑と消えた.
それでもフビライは諦めなかった.再び使者を日本に派遣.時宗は即刻使者を処刑した.再び元軍が来るかもしれない.時宗は手を打った.博多湾沿岸に上陸を阻むための石防塁を築造.時宗はこの国難を北条氏の領地拡大に利用した.末弟・宗頼を長門探題に任命.戦の備えを名目に九州や中国地方に北条一門を送り込んだ.時宗のしたたかさはさすがという他ない.7年後に再び日本を攻めた元軍は石防塁を前に上陸できず,二度目の大嵐に遭遇.再び元軍は眼前から忽然と姿を消した.
国難は去ったが多くの死者が出た.その死者を弔うために建てられたのが円覚寺(えんがくじ)である.鎌倉五山の第二位に定められている.官的性格の強い建長寺に対して,円覚寺は北条氏の私寺である.日本と元の戦死者が分け隔てなく供養されていることは時宗の人柄を表している.寺内には佛日庵があり,時宗の廟所となっている.
元軍が鎌倉に与えた影響は大きかった.戦には勝ったが新しい土地が得られた訳ではない.幕府には御家人に与える恩賞がなかった.時宗の息子・貞時は御家人の借金を帳消しにする徳政令を出すことで御家人に報いようとするが,逆効果であった.再び徳政令が出るかも知れない.御家人にお金を貸す店はなくなり,御家人はさらに窮地に陥った.
徳政令の後,多くの御家人が北条氏から離反し,貞時の息子・高時が得宗の時に鎌倉幕府は滅亡した.佛日庵の堂内には時宗・貞時・高時の親子三代の木像が並んでいる.その容姿はどれも似ているが,幕府の滅亡を見た高時の像は若干肩身が狭そうにも見える.
(2007/12/23)
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