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安井成安が見た道頓堀を歩く
歴史を通して意外なところで地名と人名が結び付くことがある.

豊臣の時代,安井成安という人物がいた.安井氏は足利一族ともいわれているが真偽は定かではない.それはともかく成安は土木家であった.大坂城の壕を掘削した功賞として秀吉から城南の地を与えられた.

その後,成安は城南の地に水路を開いて商家の誘致を計画.秀吉から許可を得た後,私財を投じて東横堀川から木津川に通じる水路の開拓工事に取りかかった.しかし,工事半ばにして大坂夏の陣が勃発.秀吉への恩返しのために大坂城に入城.落城と共に戦死する.

まだ,開拓中であった水路は成安の従弟である道卜ら一族に引き継がれて江戸初期の元和元年(1615)に完成.当時大坂を支配していた松平忠明は成安の功績を称えて,この水路を道頓堀と名付けた.成安は剃髪後に安井道頓と名乗っていており,その名前を冠したのである.つまり,道頓堀は安井道頓の名に由来する.

道頓堀周辺は江戸期には芝居町として発展し,中座,竹本座,浪花座などが乱立.劇場では歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられた.今では,飲食店が集中する繁華街となっており,かに道楽やグリコ,づぼらやなどの特徴ある看板が並び,ミナミを代表する人気スポットとなっている.

久しぶりに道頓堀周辺を歩くと,ひっかけ橋で有名な戎橋は現在工事中.阪神ファンがダイブできないように新戎橋を架設しようとしている.大阪ならではの風物詩が見られなくなるのは寂しいが,水質汚染が原因だ.橋以外にも,道頓堀川沿いの遊歩道や楕円の観覧車などが新たに開発されており,新しい水都として生まれ変わろうとしている.

戎橋から道頓堀に沿って繁華街を歩く.太左衛門橋,相合橋を過ぎると日本橋にだどり着く.日本橋は紀州街道の道筋として,紀州藩や岸和田藩の参勤交代道に利用された橋であり,道頓堀が開削された当初より整備されていたと考えられている.

その日本橋の袂には『贈従五位安井道頓安井道卜紀功碑』と掘られた石碑が立つ.大きな石碑ではあるが,何も知らないと特に注目することなく通りすぎてしまいそうだ.その証拠に通行人は誰も見向きもしない.この石碑は大坂城の石垣となるために掘り出されたが実際には利用されなかった『残念石』でできており,裏面には安井道頓と道卜の業績を称える漢文が刻まれている.

道頓堀の完成から350年後の1965年に面白い裁判が行われた.安井道頓・道卜の子孫が道頓堀の川敷の所有権を主張して大阪地方裁判所で民事裁判を起こした.道頓堀は先祖が作ったものだから自分達に所有権があるというのだ.

11年の歳月をかけて争われたこの裁判は,江戸時代の所有権の有効性や法整備前の所有の概念など数多くの問題を提起した.しかし,最終判決では原告の請求は棄却.道頓堀繁栄の基礎を築いた道頓・道卜の功績を称えた判例として判史に記録されている. (2004/12/28)

文章力向上のため,採点に御協力願います:
面白い, まあまあ, 普通, あまり, 面白くない


司馬遼太郎 「けろりの道頓(最後の伊賀者に収録)」 講談社文庫

「安井道頓は,これから大坂城に入城する」と存外凛とした声で道頓はいうのだ.道卜は肝をつぶした.あまりの意外さに口もきけなかった.百姓の分際で,しかもこの高齢で,いったい何を呆けたことを言いだすのだ,と思い,「正気でござりますか」といった.「ああ,正気や」「どういうおつもりでござります」「豊公には恩義がある」何を言うのだ,と思った.むかし,天満川畔の青物市で肩をたたかれただけのことではないか.

 

かに道楽と道頓堀の看板

竹本座跡の石碑

日本橋から見た道頓堀川

安井道頓・道卜紀功碑

安井道頓・道卜紀功碑(裏)


今回歩いたコース

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