陰暦の十月を神無月という.全国の神々は皆,出かけるために地元からはいなくなる.出かける先は出雲だ.反対に神が集まる出雲では『神在月』という.出雲には確かに神がいると思わせるだけの『何か』がある.その象徴が出雲大社だ.出雲大社の歴史は古い.創建は神代といわれている.
日本は八百万(やおよろず)の神の国だ.あちらこちらに神がいた.古事記によるとイザナギの左目からアマテラスが生まれ,右目からはツクヨミが,そして鼻からはスサノオが生まれた.アマテラスは太陽を表す皇祖神だ.ツクヨミは月夜見の字の通り夜の神を表す.
イザナギはこれらの神々に世界を分割して統治するように命じた.アマテラスに高天原を,スサノオに海原を託した.だが,スサノオは母神であるイザナミに会いたいとそれを拒否.ついに高天原から追放され葦原中国(あしはらなかつくに)へと降った.
葦原中国では出雲に留まった.この地でのスサノオの活躍は有名だ.ある娘が生贄に出されるという.この娘を守るために八つの首を持つ大蛇,ヤマタノオロチを退治.尾から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を手に入れ,アマテラスに献上した.三種の神器の一つ草薙の剣である.
スサノオの6世の孫といわれるのがオオクニヌシだ.オオクニヌシは大地の神だ.仔細は省略するが大地の神が太陽の神に国を譲る.いや,国を譲るように脅される.オオクニヌシはアマテラスに国を譲る見返りとして壮大な宮殿を要求した.天の御巣のように土台に太い柱を立てて,高天原に高くそびえるような宮殿に祀って欲しい.そうすればこの国の統治はアマテラスに任せよう.オオクニヌシは要求した.この願いによって建てられた社,それが出雲大社だ.こうしてオオクニヌシは出雲大社の祭神となった.
出雲大社の本殿の天井には八雲之図が描かれている.『八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を』とは出雲でスサノオが詠んだ歌だ.内容はともかくとして,神聖な数字の八が繰り返され,リズムは良い.最も古い和歌とされている.この歌にちなんで『八雲』は出雲を象徴する言葉となった.
さて本殿の八雲之図である.普段はオオクニヌシが祀られている場所であるため見ることはできない.本殿は60年に一度修復を行う.その際,拝殿が仮神殿となり,そこに御神体が移される.この期間は神殿にオオクニヌシはいない.その時には八雲之図が一般に公開される.それが今年だ.八雲之図を見るために出雲に乗り込んだ.
目指すは本殿だ.一目散に皆が出雲大社へと向かっている.朝一番に乗り込んだが,すでに長蛇の列.本殿を一周し,さらに折り返そうとしているところだった.まぁ仕方がない,最後尾に列を作る.神に失礼だということでジーンズや半ズボンは禁止されている.散々並んだ挙句,注意されて中に入れない人もいた.こちらは下調べをしていたので大丈夫.1時間ほど並びようやく本殿にたどり着いた.ここから先は普段は入れない神聖な領域.気持ちを高ぶらせ階段を上る.
天井をゆっくりと見上げる.そこには色鮮やかな八雲之図が見える.造営遷宮の際に書かれたものだが起源についてはよく分かっていない.現在の本殿は延享元年(1744)に建てられたものだ.絵は当時のままで手は加えられていないという.彩色は豊かだ.中に一つだけ大きな雲.これは『心(しん)の雲』と呼ばれている.遷宮斎行直前にこの大きな雲に『心入れ』という秘儀が行われたという.どのような秘儀なのかは分かっていない.
雲を数えてみる.その数は七つ.八雲というのに七雲しかないのだ.しかも一つだけがなぜか反対を向いている.この理由も分かっていない.これ以前の建物にも描かれていたのかどうか.それも分かっていない.八雲の存在は謎に包まれている.
現在の本殿は高さ8丈(24メートル)である.伝承では太古には4倍の32丈(96メートル)もあったという.その後,中古に16丈になり,現在の8丈になったというのだ.今でも十分に高いが,太古にはこの4倍もあったのか.
平安時代に源為憲によって編纂さられた『口遊(くちずさみ)』という文書がある.これは雑学書のようなもので,橋や仏像,建物などの大きさを比べている.そこに『雲太,和二,京三』という行(くだり)がある.最も高い建物が出雲大社で2番目が東大寺大仏殿,3番目が平安京大極殿だという意味だ.当時の大仏殿の高さは15丈であった.中古に16丈,太古に32丈という伝承にも真実味が増す.
平成12年,この伝承を裏付けるような発掘があった.直径1.4メートルの柱を3本束ねた巨大な柱が発掘された.巨木を3本束ねて強度を増した柱は宇豆柱と呼ばれる.直径にすると3メートル以上.地中からこの遺構が発掘され,関係者を慌てさせた.
出雲にはいまだに国造家(こくそうけ)というものがいる.国造制は大化の改新後に徐々に廃止されていった.にわかに信じがたいが,出雲ではその制度が脈々と今に続いているというのだ.出雲国造家の祖はオオクニヌシと国譲りの交渉をした一人アメノホヒである.代々出雲大社の祭祀を受け継いできた.この出雲国造家に伝わる文書の中にこの巨大な柱は記録されている.
その図面を金輪御造営差図という.この図面の存在は以前から知られていた.直径三メートルの巨大な柱を九本並べ,その上に神殿が建つ.神殿への階段は延々と続く.その長さは109メートル.そんな壮大な話があるはずもない.誰も信じなかった.その遺構が発掘されたのだ.図面の信憑性が出てきた.関係者が慌てるのも無理はなかった.
出土した宇豆柱の遺跡は古代出雲歴史博物館に展示されている.八雲之図を見た後に向かうことにした.午後を前に八雲への行列はさらに伸びている.本殿を2周し,さらにそこから参道へと続く.ここからだと3時間くらいはかかるだろう.早起きは三文の得とは正にこのことだ.
その前に出雲といえばやはり出雲蕎麦である.まだ昼前だが早朝からの行動で空腹だった.出雲の割子蕎麦の基本は3段重ね.それぞれの皿に卵,ねぎ,おろし大根などの薬味がのり,上から順に食べる.食べ終わると余った汁と薬味は上の皿から下の皿へと落としていく.喉越しが良く,つるりと胃袋の中に収まっていく.大盛りの5段重ねが瞬く間に消えた.
食べ終えると会計を済ませ歴史博物館に向かった.入口へ向かう通路は伝承の109メートルの階段をイメージしている.その先に迎えてくれるのは巨木三本を束ねた宇豆柱の遺構である.科学的な分析の結果,この柱は中世の遺構であり,宝治2年(1248)に造営した本殿の可能性が高いという.大林組の調査によるとこの柱を使えば強度的には伝承の32丈の高さは十分に実現可能だという.模型を見ながら壮大なスケールの神殿に思いをはせた.
さて,ここから先は撮影禁止だ.中に足を踏み入れる.そこには出雲で出土した青銅器が並んでいる.ある一面を見て驚いた.軽い眩暈さえ感じた.目の前の壁一面に銅剣が規則正しくびっしりと並べられているのだ.その数が半端ではない.正に圧巻だった.
昭和59年のことだ.出雲大社から東南東に10キロ,荒神谷遺跡から大量の銅剣が出てきた.その数358本.それまでに全国で発見された銅剣は300本あまりだったというから,日本中で出土した総数以上の銅剣が一箇所の遺跡から出てきたのだ.調査団は色めきたった.これまで出雲は考古学の空白地であった.青銅器文化は畿内か北九州.それが常識だった.伝承だけで実際には何もない.そう考えられていた出雲が考古学の表舞台に現れた.
出雲の本領はそれだけではなかった.平成8年にはその3キロ先から39個の銅鐸が発掘された.農道の建設中にショベルに突き刺さったのだ.ここは加茂岩倉遺跡と名付けられた.銅鐸文化中心とされる奈良でさえ出土した銅鐸数は20である.その倍近くが一度に発見された.
出雲国風土記によるとこの周辺はオオクニヌシが御宝を積みおいた土地だといわれている.大量の銅剣や銅鐸の出土は一体何を表しているのだろうか.出雲では今も八百万の神々が息づいている.正に神話の国だ.これからも目が離せない.
(2008/5/18)
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