先週までの凍てつく冬の寒さは幾分和らいでいた.『霧の都』と呼ばれる街ロンドン.今でも濃い霧がかかる朝はあるが,最近はめっきり減っているという.この日も空は白んでいたが視界は悪くなかった.
ロンドンは樺太と同じくらいの緯度に位置する.それでも気温は東京とさほど変わらない.北大西洋海流が暖かく湿った空気を運んでくるからだ.霧の都といわれるようになったのは18世紀半ばのこと.紡績機の改良によって産業革命が興り,イギリスは世界の工場と呼ばれていた.
全世界に向けて生産される大量の製品.蒸気機関の発明は生産性をさらに高めた.あちらこちらに煙突が立てられ,煤煙が空を埋め尽くす.一日中黒い霧が立ち込めていた.霧の都といわれる所以だ.産業革命は移動手段にも革命を与えた.蒸気機関車や蒸気船が発明され,世界の距離を縮めた.こちらは交通革命と呼ばれることもある.
この頃,イギリスは7つの海をまたにかける大英帝国であった.領土の拡大を求め,植民地政策に明け暮れていた.アメリカこそ独立戦争の敗北で失ったものの1800年代の終わりにはカナダ・アフリカ・インド・オーストラリア,太平洋や大西洋の島々を統治した.世界中に植民地を持つ日の沈まない帝国だった.この大英帝国の繁栄期に女王に君臨していたのがヴィクトリア女王である.
女王の在位期間は1837年から1901年の64年間.大英帝国繁栄の歴史はヴィクトリアの歴史といっても差し支えはないだろう.
ロンドンの街を歩いていると至る所でヴィクトリアの名前を目にする.テムズ川沿いにある国会議事堂.ロンドンの象徴ともいえるビッグベンの反対側に建つ塔はヴィクトリアタワーだ.女王の在位中に建てられた.建設当時,塔としては世界一の高さを誇った.
南部方向への電車の発着場はヴィクトリア駅.1862年に開業した.この駅を拠点にはじまるヴィクトリア通りは国会議事堂へと続く.もちろん人名にもよく使われている.最近の調査では最も成功しそうな女性の名前の第一位に選ばれたという.しかし,当時は非常に珍しい名前であった.
それはヴィクトリアの微妙な立場に関係している.イギリスの王位継承は長子相続性で基本的に男子が優先される.しかし男子がいない時には女子にも継承権は認められている.これまでにもエリザベス一世やアンなど四人の女王が君臨してきた.
摂政皇太子の弟エドワード(ケント公)に女子が生まれた.ケント公は王の後継者を意味するような名前を望んだ.名付け親は摂政皇太子である.ケント公は歴代国王が受け継いできたジョージの女性名・ジョージアナやエリザベスなどを候補として挙げた.しかし与えられたのはヴィクトリアという馴染みのない名前だった.
ヴィクトリアの母・ヴィクトワールはドイツ出身の貴族である.摂政皇太子はヴィクトワールを英語読みにした名前をヴィクトリアに与えた.ドイツ出身者には王位を継がせないという思いが暗に込められていたことだろう.仲の悪い兄からの嫌がらせであった.
ケント公には兄が3人いて,それぞれに子供もいる.ヴィクトリアの王位継承順位は高かった訳ではない.しかし,相次ぐ王の死,王位継承者の死によって,ヴィクトリアの元に王位が転がり込んできた.ヴィクトリア18歳の朝,伯父の国王ウィリアム4世の死んだ.ヴィクトリア女王が誕生した瞬間だった.
戴冠式はウェストミンスター寺院で行われた.ダイアナ妃の葬儀が行われたのもこの場所だ.白亜の二本の塔が目印だが,正面の壮麗な装飾も美しい.2つの顔を持っているようだ.中には歴代の王が埋葬されており,エリザベス1世もここで眠っている.
聖廟の中央にある戴冠の椅子は1301年に作られたものだ.この日,この椅子に座ったヴィクトリアに王冠が載せられ,戴冠式が終了した.沿道には女王を一目見ようと多くの民衆が集まり,祝福の中,8頭もの馬が引く黄金の馬車にひかれてバッキンガム宮殿へと戻った.
バッキンガム宮殿は衛兵の交替式が有名だ.イギリス国内では最もつまらないアトラクションともいわれているようだが,宮殿前にはいつもたくさんの観光客がたむろしている.気候の良い時期は毎日開催されているが,この時期は1日おきだ.11時半から始まる.
特に時間を合わせた訳ではなかったが,ウェストミンスター寺院からヴィクトリア通りを抜け,ウェストミンスター大聖堂のベルタワーを上り,バッキンガム宮殿に到着すると,門前には人だかり.まさに交替式の最中であった.いつもは微動だにしない衛兵.ここぞとばかりに体を動かしていた.
宮殿前に立つ金色の像はヴィクトリア女王記念碑.交替式を見るには特等席だ.ここに座っている人たちはきっと早くから席取りをしているに違いない.この記念碑から東はセント・ジェームスパーク,北はグリーンパーク,西はハイドパーク.見渡す限り広大な公園が広がっている.
今回の最終目的地はハイドパークから湖を超えた先にあるケンジントンガーデンズだ.宮殿からハイドパークへと向かった先には凱旋門のような重厚なアーチが建っている.ウェリントンアーチだ.ここでウェリントンについて少し説明しておこう.
ウェリントン公アーサー・ウェルズリー.軍人であり政治家でもある.ナポレオンとの戦いで軍功を重ね,ナポレオン最後の戦いであるワーテルローの戦いで指揮を執り,フランス軍を打ち破って名声を高めた.戦いの後は政界に転身し,後に首相になっている.ニュージーランドの首都ウェリントンはこの人物からつけられた都市名だ.
アーチの近くにはウェリントンの住んでいた家がウェリントン博物館として公開されている.個人の家とは思えないほど立派な建物だ.中に入ろうかとも思ったが,何といってもイギリスは物価が高い.拝観料だけでも馬鹿にならない.今回は素通りし,アーチをくぐって,目的のセント・ジェームズパークへと向かうことにした.
その途中に寄り道をしたいところがあった.ヴィクトリア&アルバート博物館,ロイヤルアルバートホール,そしてアルバート公記念碑である.
イギリスの立憲君主制において,女王はどの政党にも偏らず,中立的な立場から政治を補佐する必要があった.とはいっても女王はまだ若い.時には感情的になり,首相との間に確執が生じ政局を混乱させることもあった.精神面からも女王を補佐する夫が必要だった.
白羽の矢が立ったのが母方の従弟アルベルトである.女王は以前会ったときからこの従弟に惹かれていた.結婚式はセント・ジェームズ宮殿の王家礼拝堂で執り行われ,アルバートとして女王の夫に迎えられた.とはいってもドイツの血を引く夫に対して周囲は優しくなかった.政治的な権限は与えられず,イギリスの爵位すら与えられなかった
そんな中,彼が名声を勝ち得たのが第一回ロンドン万国博覧会だ.ハイドパークで行われ,アルバート公が取り仕切った.29万枚以上のガラスを使った水晶宮(クリスタル・パレス)と呼ばれる温室を模した会場を作り,国民の注目を集めた.成木がそのまま中に立つほど巨大なパレスだったという.その荘厳さ美しさに国民は感嘆し,拍手喝采でアルバートを迎え入れた.
この万博は600万人もの入場者を数え,莫大な利益を生んだ.その収益金はヴィクトリア&アルバート美術館や隣接する自然史博物館・科学博物館の設立に使われた.
ヴィクトリア&アルバート美術館は大英博物館ほど有名ではないが,多数の芸術作品を収蔵している.規模は大英博物館に劣らない.中には女王の肖像画があるだろうと思い学芸員に聞いてみた.何枚かある中で一番有名なものだと教えてもらったのがインド女帝になった時に書かれた肖像画だ.そのたたずまいは帝国の女王としての威厳に満ち溢れていた.
最終目的地はケンジントン・ガーデンズにあるケンジントン宮殿だ.女王が生まれた宮殿だ.チャールズ皇太子とダイアナ妃の住居だったこともあり,ダイアナ妃に関する展示が多い.がっかりしながらクイーンズルームに入ると1枚の絵画が目に飛び込んできた.白いドレスの少女とそれを囲む男性達.
遠足だろうか.その絵画を子供たちが取り囲んでいる.そして担当員が説明していた.ヴィクトリアが女王になったばかりの初めての枢密顧問会議の絵だという.いうならば内閣の議会だ.先ほどの絵とは違い,18才の女王は初々しい.国王の伯父が無くなった直後のため黒い喪服を着ていたが,画家は目立つように白いドレスで描いたという.子供向けの解説は英語も分かりやすい.
集まった顧問官は長年にわたり政治を司ってきた強者達だ.絵の中にはウェリントンも描かれている.ナポレオンを破ったウェリントンかと尋ねるとその通りだという.女王は若いときから老獪な政治家達と大英帝国繁栄のために戦ってきた.そして女王から女帝へと上り詰めたのだ.
4男5女を生んだヴィクトリア女王.子供や孫・曾孫はヨーロッパ全土を治め,ヨーロッパの祖母といわれた.女王の葬儀には世界各地から子孫が集まった.しかし,彼女の死後10年と少しで,彼らは敵味方に分れて戦う運命にあった.
ドイツを第一次世界大戦へと導いた皇帝ヴィルヘルム2世はヴィクトリアの初孫である.帝国の成長は世界を巻き込む戦争へ向けてゆっくりと走り始めていた.(2008/2/23)
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