暑いから海にでも行こうか.岡倉天心との出会いは,それくらいの軽い気持ちがきっかけだった.目的地は茨城県の最北端に位置する五浦(いづら).海に面して魚介がうまい.そこに六角堂という建物が建つ.今は茨城大学五浦美術文化研究所だが,もとは天心が作った美術研究所だ.
フェノロサと日本美術の活動をした人.行きの車の中で天心に対する認識はその程度だった.日本美術を守るための活動だろうか.それとも発展させるための活動だろうか.そんなことを考えながら車を走らせた.高速道路の整備された今日でも都心からは遠い.なぜこんなところにという疑問がよぎる.
長屋門をくぐり,天心記念館に入る.入り口には平櫛田中の作品,岡倉天心先生像が金色に輝いている.その裏には日本美術院理事長・平山郁夫の絵が掛かる.題目は日本美術院血脈図.中心には馬上の天心がいる.天心は美術家なのだろうか.そんなことを思い天心を調べ始めた.
天心が生まれたのは幕末混乱期の文久2年(1862).十八歳で東京開成所(東京大学)の文学部を卒業.文部省に入省した.当時の日本は明治維新を迎え,富国強兵・脱亜入欧を掲げ,西洋文化の模倣を目指した.日本の文化は捨て去られようと,忘れ去られようとしていた.
その一つの運動が廃仏毀釈である.明治政府は王政復古の大号令のもとに神政政治を目指し,神仏分離を指示.多くの仏教施設は破壊され,二束三文で処分された.古道具屋には仏像や仏具,絵図が山と積まれたが,日本人は見向きもしない.その多くは海外に流出した.
天心が上司の命でフェノロサと全国の古社寺の調査を始めたのはちょうどこんな時期だった.日本文化の流出を食い止めねば.仏像や絵図の制作年代や作者を調べ価値や状態を記録して回った.まだ当時は国宝や重要文化財という概念はない.天心達のこの行動こそが後に国宝を生むのである.
話しを進める前に天心に寺社調査を命じた上司・九鬼隆一について説明しておこう.名前から想像する人もいるだろうが,兵庫県三田藩の生まれである.藩主九鬼家と血のつながりはないが,同じ九鬼家の綾部藩家老の養子となり,九鬼姓を名乗った.
三田藩の藩政改革に携わっていた福沢諭吉と交流があり,藩の推薦を受け慶応義塾大学に入学.文部省に出仕し,岩倉具視の後ろ盾を得て『九鬼の文部省』と呼ばれるほどの権勢を振るった.
話しを天心に戻そう.日本美術の調査の後は,中国や欧米など世界美術の視察を行い,帰国後は新しく設置が決まった東京美術学校(東京藝術大学美術学部)の幹事になった.美術学校の開校に向けて日々東奔西走.高村光雲らを教授に迎え,横山大観,下村観山,菱田春草らを生徒に従えた.
後に校長に昇進.この間に隆一が総長を務める帝国博物館の理事兼美術部長にも就任している.隆一と共に天心が最も政治に近かった時期である.この頃の天心のノートには『四十歳にして九鬼内閣の文部大臣,五十にして貨殖に志す』と将来の夢が記されている.
しかし,この栄華は明治31年,四十歳を目前に暗転する.
最初の事件は隆一の帝国博物館総長更迭だ.隆一・天心の日本美術復興路線と政府の西欧化路線が対立.蹴落とし合いが始まった.時同じくして『築地警醒会』の名で天心を中傷する怪文書が広まった.天心の女性問題である.
天心はヨーロッパ美術調査からの帰途,アメリカで隆一と会い,身重の九鬼夫人・波津子と共に帰国した.当時の移動は船である.狭い船室での長旅だ.二人は道ならぬ恋に落ちた.
帰国後もこの関係は続き,いや益々激しくなり波津子は隆一に離婚を迫り,精神的に錯乱.病に伏した.この一件で天心はすべての地位を失った.東京美術学校長も帝国博物館理事も免職になった.官界から去るしか術はなかった.
天心の辞職に大観を始め多くの人が従い,共に野に下った.そしてこの同志は日本美術院を設立.講演のために全国を行脚し,日本各地で美術展を開催した.今でこそ大観は日本画壇の巨匠である.しかし,この当時はまだ地位を得ていない.先進的な画風は保守派から猛烈な批判を浴びた.
天心には放浪癖があるのだろうか.日本美術院の体制も完全に整わぬ間にインドへ旅立つ.日本文化の源泉をインドの美術や宗教の中に見出そうとした.帰国後も放浪癖は止まず,アメリカ・日本を往復.ついにはボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられ,1年の半分をボストンで残りの半分を日本で過ごす生活を繰り返した.
ボストンでは日本から流れた資料の整理を行った.さらに持ち前の語学力を活かし『茶の本(The Book of Tea)』や『日本の覚醒(The Awakening of Japan)』などを執筆し日本文化を広く海外に紹介した.そして,帰国すると美術家の育成に努めた.この時に日本での活動拠点に選んだのが東京から遠く離れた五浦である.都落ちだと批判もされた.
岩壁に突き出た岩場.そこに六角堂を建てた.その形状は若かりし頃に見た法隆寺夢殿の影響を受けたのは間違いない.杜甫の六角亭を模したものともいわれている.離れにポツンと建つ姿は正に茶室的空間である.ここで本を読み,本を書き,瞑想に耽った.岩砕く波の音が心地よい.
天心は芸術家だったのだろうか.天心が美術会に残したものは何だったのだろうか.天心を師と仰ぎ,最後まで付き従った大観の言葉が分かりやすい.
『岡倉先生は,いわゆる筆を持たない芸術家でありました.つまり芸術家の上に来るもの,芸術及び芸術家を指導するお方だったのです.岡倉先生がなかったならば,今日の日本美術院もなかったでしょうし,もちろん我々もなかったでしょう』
筆を持たない芸術家.納得の評である.五浦の岩場に立ち,目を瞑り波の音を聞く.不思議と心が落ち着く.天心がこの地を拠点に選んだ理由が分かるような気がした.
(2007/8/5)
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