ローマは街全体が世界遺産だ.街を歩いていると右にも左にも石造りの古代遺跡が広がる.紀元前のものさえ珍しくはない.ヨーロッパの歴史の中でも群を抜いて古いこの町は散策する旅人を魅了する.
ルビコン川を渡る時に「賽は投げられた」と兵士を鼓舞するカエサル・シーザー.奴隷からの解放を願ってコロッセオで猛獣と戦うグラディエーター.古代ローマ時代のピソードを思い浮かべながら遺跡を見上げると圧倒的な迫力で眼前に迫ってくる.
しかし,ふと一つの考えが頭をよぎる.これらの遺跡は考え方によっては負の遺産ではないか.威圧的な遺跡が建ち並ぶ姿を見るとそんな風にさえ感じてしまう.
新たに開発しようにも街中が古代遺跡だ.建物はおろか道を作るのもままならないのではないか.日本でも京都や奈良の開発は大変だ.工事途中に遺跡が見つかると発掘調査が始まる.それが完了するまで工事は再開できない.
新しい街づくりができない.これは現在に始まったことではない.古代ローマ時代の皇帝達もそう思っていた.
64年にローマでは大火が発生した.日本では弥生時代.まだ記録された歴史はない頃のことだ.卑弥呼より200年も古い記録が残っていることに驚きを感じるが,古代ローマの歴史は詳細に分かっている.この大火によって都市の半分以上が焼失した.
時の皇帝はネロ.暴君として名を知られる.この評価に関しては後に触れるが,少なくともこの頃の評価は悪くない.
大火はパラティーノとチェリオの丘を焼き尽くし,当時建設中だったネロの宮殿は焼失した.すぐさまネロは被災者支援の指揮を執った.延焼を免れたパンテオン神殿などの公共施設を被災者に開放.大量に小麦を運び込み,パンや飲料水を被災者に配給した.
九日間燃え続けた火が鎮火するとネロはすぐさまローマの再建に取り掛かった.
当時のローマは世界の首都といわれる百万都市である.人口の流入が絶えず,継ぎ足しに継ぎ足しを重ね,自然発生的に大きくなった.そのためローマ人の建設技術をもってしても計画的な街づくりができなかった.古くからの建築物が邪魔をしたのだ.その足枷が大火によって燃えて無くなった.
より美しいローマにしたい.再建に際してネロは道の幅や建物の高さ,材質まで事細かに規制した.街の再建には財力が必要だ.紀元前のアウグストゥス以来の通貨改革を行い,資金を捻出した.ネロのローマ再建計画は市民に受け入れられ,急速に開発が進んだ.
この評判に気を良くしたという訳ではないだろうが,この時ネロは大きな過ちを犯した.
再建を機にローマ都市部の大改造を行おうとしたのだ.『ドムス・アウレア』(黄金宮殿)の建設である.パラティーノの丘からエスクィリーノの丘に至る50万平方メートルを使った壮大な計画である.
チェリオの丘下の低地に人工湖や自然公園をつくり,それらを横目に1.5キロにも及ぶ列柱回廊が本館へと続く.回廊には37メートルものネロの黄金の巨像が立ち,眼下を見守る.
ドムス・アウレアは誰のためのものだったのか.ネロはローマ市民皆に快適な場所を提供するつもりで計画したのかもしれない.しかし,市民の思いは違った.ドムス・アウレアをネロの私邸だと受け取ったのだ.
市民に反感の感情が芽生えた.その頃から放火を命令したのはネロではないかという噂がまことしやかに囁かれた.ネロはドムス・アウレアを建設するためにローマを灰にしたのだと.この噂が広まるのに時間はかからなかった.
市民の反感をどこかに転嫁しなければならない.ネロは焦った.放火犯の特定が最優先だ.しかし今更見つかる訳もない.スケープゴートが必要だ.キリスト教徒を放火犯と決め付けた.そして,ローマのキリスト教徒を次々に捕らえ拷問を加え死刑に処した.
この当時のキリスト教については説明がいるだろう.
時は64年のことである.イエス・キリストが死んだのが36年頃といわれているから,その弟子たちが各地で布教活動をしていた頃のことである.当時のキリスト教はユダヤ教から分教した新興宗教だとみなされていた.多神教徒の古代ギリシアやローマにおいて,唯一神であり皇帝崇拝を拒否するキリスト教は危険な存在であった.ネロはこれを機にキリスト教を迫害してしまおうと考えたのだろう.
しかし,これも失敗であった.残忍な処刑はキリスト教徒への同情を生んだ.ネロ放火犯説は消えることはなかった.しかも,このキリスト教徒迫害が後に暴君の評価を生み出すことになる.
暴君ネロはキリスト教徒が世界的に力を持ってから生まれた評価である.ネロは母を殺し,妻を殺し,師セネカを殺した.しかし,この時代の権力争いでは珍しいことではない.ネロに暴君という言葉は似つかわしくない.皆の前で歌ったり,竪琴をかき鳴らしたりと凡そ皇帝には似つかわしくない芸術的な一面を持つ皇帝であった.
このネロの芸術的な一面が災いする.皇帝の資格なしとみなされ追放されるのだ.結果的にドムス・アウレアは完成に至らなかった.ネロの構想はローマ人には受け入れられなかった.ネロは最期に「これで一人の芸術家が死ぬ」と呟いたという.
後の皇帝によって建設中のドムス・アウレアは取り壊され,闘技場や浴場へと姿を変えた.黄金のネロの像は太陽神の頭部にすげ替えられた.人工湖の場所に建設された闘技場は後にコロッセオと呼ばれるようになる.その名はネロの巨像(コロッソ)に由来するという.
コロッセオの横にドムス・アウレアの面影は今もひっそりと残っている.
(2007/4/10~13)
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