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林則徐が見た香港を歩く
国際会議に出席するため香港に行った.高層ビルがひしめき合い,100万ドルの夜景とも言われる香港.西洋と東洋の文化が混じった街である.

背広姿で闊歩する人たちは高層ビルへと消えていく.その裏通りでは青空の下で市が開かれ,上半身裸の人たちが客の目の前で豚や鳥をさばいている.貧富の差は大きいのであろうが,貧しいという印象は受けない.それほど街中が活気に満ち溢れていた.

地元の人たちの交通手段は2階建ての路面電車トラムだ.運賃は2HK$(約30円).それに比べて観光客が利用するエアポートエクスプレスは高い.空港から香港駅までの運賃が100HK$.観光客が外貨を落として帰る.それで街が潤っている.

人口7千人ほどの小さな漁村だった香港はわずか160年の間で人口700万人の国際都市へと変貌を遂げた.香港繁栄の歴史はアヘン戦争を抜きには語れない.

18世紀頃,イギリスではお茶(ティータイム)の習慣が広まり,清からお茶や陶器を大量に輸入した.そのため大量の金銀がイギリスから清へと流出した.巨額の貿易赤字だ.

一方,アメリカでは独立戦争が起こり,イギリスは戦費調達のために金銀の流出を食い止める必要があった.貿易赤字を解消する方法として考え出されたのがアヘンの輸出である.イギリスの国策会社である東インド会社はインドでケシを栽培.アヘンを作り,大量に清へと輸出した.

アヘンは麻薬である.幻覚症状を引き起こし,中毒に到る.清の道光帝は林則徐(りんそくじょ)を欽差大臣(全権大使)に任命.アヘンの密輸を阻止しようとした.しかし,巨利を得ていたアヘン商人.度重なる提出命令を無視し密売を続けた.

林則徐は強行手段に出た.1425トンものアヘンを没収.塩と石灰を混ぜて使えなくして海へと流した.同時にイギリスとの貿易を全面的に禁止した.

1840年,報復攻撃が起こった.アヘン戦争である.火力に勝るイギリス東洋艦隊は完全に制海権を掌握.清は降伏し南京条約に調印した.この条約によって香港はイギリスへ割譲.良くも悪くもこれが香港繁栄の始まりである.

1997年に香港はイギリスから中華人民共和国へ返還され,特別行政区になった.今では植民地時代の面影を残すものは少ない.会議の最終日,早朝に目が覚めた.やはり行っておこう."Possession Point" へ.日本語にすると占領地点だ.上環駅の近くにある.

香港島に上陸したイギリス軍が最初にユニオンジャックを立てて香港の占領を宣言した所だ.しかし,これはイギリス側の事情だ.香港市民にとっては不名誉な場所だ.地元では水坑口と呼ばれている.石碑くらいは立っているのかと思えば,跡地は荷李活道公園(ハリウッド公園)と名前を変え,占領地点の面影は何も残ってはいない.老人の憩いの場と化していた.

アヘン戦争の敗戦はすぐに幕末の日本に伝えられた.同じ刃が日本にも向けられるかもしれない.清と同じ道をたどってはならない.日本は幕末の混乱期である.危機感を募らせた.江戸幕府は海外貿易を統制していたし,明治政府はアヘンの国内流入を厳しく規制した.舵取りを一歩間違っていれば日本も香港と同じ植民地への道を進んでいたかも知れない.

それを阻止できたのは,林則徐が編纂を命じた『海国図志』が一端を担っている.西洋の地理学百科事典を訳し,西洋を中心とした世界の情報を記した資料である.戦に勝つためには敵の情報を入手することが大切である.この本は日本にもいち早く伝えられ,明治政府は世界と対等に付き合う方法を学んだ.

林則徐はイギリスの征清が決まると欽差大臣を解任され,地方へと左遷された.林則徐が欽差大臣を続けていれば香港の植民地化は防げたという彼への評価はあながち大げさではないだろう. (2006/8/21~24)

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陳 舜臣 「阿片戦争(上中下)」 講談社文庫

台湾に統文,香港に承文,上海に理文.-それぞれ遠く離れている.怒濤の時代に立ちむかう若い人たちのことを思い,連維材は老いを感じた.話し合っているあいだに,三人はだいぶ酒をのんだ.三人とも酒が好きであった.「時代がかわります」と王挙志が言った.「もっとかわるでしょうな」林則徐は杯を干して言った.-「かわる.…それだけではない.あなた方は,かえようとなさる」

 

香港の夜景

香港の大通り

街の精肉屋

夜の大通り

水坑口街 (Possession Street)

荷李活道公園

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